戦国時代に主君の右腕として
戦術のサポートをしたのが軍師!
もともとは占いによって合戦の吉凶を占うのが軍師の役割じゃったが
戦国時代には戦術や外交交渉する役割となったんじゃ
今回は戦国時代に活躍した軍師をランキング形式で紹介していきます!
第10位
安国寺恵瓊
安国寺恵瓊は毛利家の外交僧。武士の家に生まれましたが、幼くして滅亡してしまったため寺の子となっていました。しかし、恵瓊の野心は大きかったため、しだいに寺内で頭角を表し京都の東福寺の僧となります。これでも恵瓊の野心は収まらず、高僧に紹介され、毛利家の外交僧となります。
恵瓊はとにかく口がうまかったから外交僧にまで上り詰めれたんだ
毛利家の外交僧となった恵瓊は当時、織田信長のもとで頭角を表していた豊臣秀吉の実力を見抜きました。その際、「信長はあと3、5年の内に横死し、藤吉郎秀吉が台頭する」と予言しています。そして秀吉の天下が決まると、ますます豊臣家に出入りするようになり、ついに城持ちの大名までに出世を果たしました。
第9位
片倉小十郎
片倉小十郎は伊達政宗の腹心。小十郎の忠誠心は凄まじかったようで、小十郎は政宗よりも10歳も年上にも関わらず、「主君よりも先に男児を授かってはならない」と生まれてきた長男を殺害しようとしました。これにはさすがの政宗も驚き止めに入ったため、生まれたばかりの長男は助かりました。
他にも小十郎は疱瘡で飛び出た政宗の目をえぐり取ったことも
また、政宗は若くして奥州の覇者となりましたが、天下人となった豊臣秀吉には力が及びませんでした。それでも依然として、政宗を中心に伊達家内には豊臣家への抗戦派が存在していました。このときに小十郎は政宗の機嫌をとりつつ秀吉に従うことを提案。政宗は小十郎の熱心な意見を受け入れて秀吉に従順しました。
小田原征伐のときの話じゃ
このときに抗戦していたら敗れておったじゃろな
第8位
直江兼続
直江兼続は上杉景勝の右腕。景勝から絶大な信頼を得ており、上杉家内で大きな権力を握っていました。そのため、当主の上杉景勝を「お館様」、直江兼続は「旦那」と呼ばれる二頭政治が敷かれました。
景勝と兼続は幼馴染じゃな
兼続は上杉家と豊臣家の取次ぎを担当し、内政面で上杉家を支えました。関ヶ原の戦いでは、盟友の石田三成とともに徳川家康に対抗。ところが、西軍が敗れてしまったため、上杉家の領土が120万石から30万石へ大幅に減封されてしまいます。それでも兼続は家臣は大事だといって、1人の家臣もリストラしませんでした。
このせいで上杉家は深刻な財政難となってしまったんです、、、
第7位
小早川隆景
小早川隆景は毛利元就の三男であり、兄の吉川元春とともに甥の毛利輝元を支えた毛利両川の1人。小早川隆景は本能寺の変の際に京都へ向かって急いで戻る豊臣秀吉の軍を追撃しないように毛利家中に戒めています。
その後、頭角を表した秀吉に接近して、信頼を得ていました。そのことで、秀吉から小早川秀秋を毛利家の養子に勧められましたが、隆景は無能な秀秋が毛利家を潰しかねないと考えて、小早川家の養子としました。
隆景は五大老の候補に上がるほどの実力者でもあったんだよな
第6位
石田三成
石田三成は豊臣秀吉の右腕。三成は武将としては珍しく、合戦面ではなく内政面で活躍。有名な太閤検地や刀狩りは三成の指導のもと行われています。
検地は江戸時代にも引き継がれるんじゃ
また、三成の豊臣への忠誠心は武将の中でも群を抜いていました。そのせいで、少し頭が凝り固まってしまい、加藤清正や福島正則といった武将と仲違いしてしまうことも多々ありました。
三成は嫌われ者と思われがちだけど
三成と仲が良かった武将もいるよ