北条氏康は北条家の三代目として最盛期を作った武将やな
氏康殿がいなければ、北条家100年は続かなかっただろうなー
なにしろ周りには武田信玄や上杉謙信などの有力武将がいたからのー
そんな中で領土を広げたのはすごいよな
どうやって北条氏康が領土を広げていったのかをみていこう!!
北条氏康の年表
北条家の三代目として活躍したんやな
氏康殿は相模の獅子といわれたんじゃ
それに内政もしっかりとした武将なんじゃ
北条氏康の相関図
やっぱりこのころの関東地方は武田信玄や上杉謙信などの有力武将が目立つなー
群雄割拠の関東地方じゃからな
政略結婚をしてまわりを固めたんじゃな
北条氏康の誕生
北条氏康は1512年、相模(神奈川県)に北条家の三代目として生まれました。15歳で元服すると、隣国武蔵(東京都)の大名上杉朝興との合戦小沢原の戦いで初陣を飾り、みごとに上杉軍を破ります。そして父氏綱が亡くなると氏康は三代目として当主になりました。
このころの関東地方には上杉家がいたんやな
それに幕府直属の鎌倉公方というのもいたんじゃ
見事な奇襲攻撃!!河越野戦!!
氏康は優秀な三代目と言われていますが、前半生は大変なものでした。
今川義元と上杉憲政の連合軍が氏康のもとへ侵攻してきて、氏康は不利な講和条約を結ばせられます。これにより駿河(静岡県)の領地を失ってしまいます。
さらに翌年上杉憲政、朝定が北条家の拠点の1つ河越城を包囲し、城にいた氏康の弟は8万の大軍に囲まれてしまいます。氏康は援軍を出そうとしますが手勢はわずか8千。兵力に10倍の差があり圧倒的に不利な状況でした。
普通やったら10倍の兵力差では勝てないと思うやろな
そこで氏康は、「降伏するから城内の兵を助けてほしい」と上杉家に伝え、その上敵陣地内に遊女や商人を送り込んで宴会を催しました。
上杉家が宴会で油断しているうちに、氏康は真夜中に奇襲を仕掛けました。この奇襲攻撃により敵軍は大混乱。上杉朝定は戦死し、上杉憲政は越後(新潟県)の上杉謙信のもとへ逃げ込みました。
この勇敢な氏康の行動から氏康は「相模の獅子」と言われるようになります。
氏康殿は奇襲攻撃を仕掛ける際に、
音を出さないよう鎧を脱いで攻撃をしかけたそうじゃ
群雄割拠の関東地方!!
本拠地相模の周りには優秀な武将がたくさんいました。そこで氏康は、駿河の今川義元と甲斐(山梨県)の武田信玄と甲相駿同盟を結びます。そして氏康の娘を義元の嫡男に嫁がせ、信玄の娘を息子北条氏政の妻にして結びつきを強めました。
典型的な政略結婚やな
同盟を結んで西側の守りを固めると、氏康は相模から東側を侵略していくようになります。しかし関東管領の上杉謙信が北条家征伐にくると、氏康の本拠地小田原城は10万の大軍に包囲されてしまいます。氏康は籠城戦をなんとか耐え抜き、謙信は撤退していきました。
謙信公は越後から遠征してくるから軍が乱れておったんじゃろな
また今川義元が織田信長に討ち取られると、武田信玄は同盟を破って駿河に侵攻し、さらに氏康の居城小田原城まで攻め込んできました。氏康はまたも籠城し、信玄は鉄壁の小田原城を陥落できず撤退していきます。
北条家は上杉謙信と武田信玄という有力武将から守った小田原城の凄さを過信しすぎて
のちのわしによる小田原城攻めで敗れてしまったんじゃ
まとめ
北条氏康は武田信玄や上杉謙信と争いながら関東地方で勢力を拡大し、北条家の繁栄を最大化した人物でした。
また氏康は徹底的な検地をして、領地の管理を行ったり、合戦による不作で苦しむ農民の税を軽くしたりと、北条家の家訓「領民を大事にせよ」を守りぬいた武将でした。
氏康は小田原城を拠点に関東各地に北条家の支城を配置してん
支城にそのまわりの支配を担当させる分担支配をしたみたいやで
いまでいうとフランチャイズ展開やな
氏康殿の顔には2箇所傷跡があって、背中には傷がなかったそうじゃ
顔の傷は氏康殿の勇猛の印じゃな