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毛利両川!!秀吉が嫌いな吉川元春!!

戦国武将
ひろ
ひろ

吉川元春って俳優の吉川晃司のご先祖様だな

豊臣秀吉
豊臣秀吉

元春は毛利元就の息子で戦上手な武将じゃった

弟の隆景と違って元春は

わしのことがあまりすきじゃなかったみたいじゃ

ひろ
ひろ

どうして秀吉さんのことを嫌ったんだろう?

それでは吉川元春の生涯をみていこう!!

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吉川元春の誕生

吉川元春きっかわもとはるは1530年、安芸(広島県)に毛利元就の次男として生まれました。元春は母親の実家吉川家の養子になり、吉川家とのつながりを深めました。これは天才毛利元就が仕組んだのでした。とはいえ、すでに元春の義父吉川興経には後継ぎがいたために、元春と興経は対立します。そのため毛利元就が興経を殺害して、元春を吉川家の当主とします。

父元就は、主君大内義隆を謀反で殺害した陶晴賢すえはるかたとの間で合戦が起きました。これが有名な厳島の戦いいつくしまです。毛利軍はわずか4千程度でしたが、陶軍は3万程いたために圧倒的に不利な毛利軍でした。ところがここでも父元就の策略がひかります。元春は陸軍を担当、弟小早川隆景水軍を担当して、陶晴賢を自害に追い込みました。このころから兄弟は2人で毛利家を支えて、毛利両川もうりりょうせんといわれるようになります。

ひろ
ひろ

毛利元就って本当に天才的な頭脳で物事をうごかすね

その父から学んだ元春や隆景が毛利家を強くしたんだ

父毛利元就も認めた戦のうまさ

厳島の戦いのあと、元春は父元就とともに月山富田城がっさんとだじょうの戦いに参加して尼子家を討伐するなどの活躍をみせます。このときの戦うまさから、父元就は

「我戦では元春に及ばぬ」

といったほどでした。

それもそのはずで元春は生涯に77回の戦を経験しておいて、64回も勝利しているかなり凄腕の戦国武将です。この戦績は武田信玄にも匹敵するほどの数字です。

ひろ
ひろ

信玄と同じくらいの勝率ってすごいな!

豊臣秀吉
豊臣秀吉

わしも元春の戦のうまさをかっていたんじゃ

秀吉が嫌いすぎる!?

織田信長が勢力を拡大し、ついには毛利家の傘下まで攻め込んできました。信長の命を受けた豊臣秀吉は1582年に毛利家の傘下清水宗治の居城備中高松びっちゅうたかまつ城を攻め込みました。しかし、京都では本能寺の変が起きたために秀吉はすぐさま宗治と和解をしました。条件は宗治の切腹と城兵の解放です。このときの宗治の切腹が見事だったために、元春や隆景などは涙したといいます。

ひろ
ひろ

備中高松城は水攻めをされていたから、天守閣のまわりは湖のようになっていたんだ

その湖に宗治は小舟をだして、みんなの前で切腹したんだ

そして秀吉が撤退していった次の日、毛利家も本能寺の変を知ります。元春は秀吉を追撃しようとしますが、弟の隆景が追撃しない方が毛利のためになるといい、追撃しませんでした。これ以来元春は秀吉にだまされたと思い嫌うようになります。

秀吉を嫌った元春は、秀吉が天下人になるとすぐに息子に家督を譲ります。それほど秀吉に従うのが嫌だったのでしょう。とはいえ、秀吉から九州攻めに参加するように何度も言われたために仕方なく参加しました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

元春は全然心を開いてくれないんじゃー

それに家康とも内通しておったんじゃよ

ひろ
ひろ

元春は高松城での和睦が失敗したとおもって

ずっと後悔していたのかな

まとめ

以上が吉川元春の生涯でした。毛利両川の元春は陸軍を担当し、戦の上手でした。それに対して、隆景は水軍を担当し、あたまが良い武将でした。ふたりはバランスの取れた兄弟で、お家騒動も起こすことなく毛利家の繁栄に力を尽くしました。

ひろ
ひろ

実力もあってこれほど協力的な兄弟はめずらしいな

普通実力があれば揉めてしまうのに

コメント