
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する石川数正は
松重豊さんが演じている徳川家康の宿老ですね

石川数正の出奔は徳川に大きな痛手であった、、、

石川数正はどうして豊臣に寝返ってしまったんでしょうか?
石川数正の年表


石川数正の相関図


石川数正の誕生
石川数正(演 : 松重豊)は1533年、三河(愛知県)に石川康正の長男として誕生しました。石川家の先祖は河内源氏であり、安祥七譜代といわれる松平家(徳川家)古参大名の一つに数えらる名門家でした。


石川数正はわしより9歳年上じゃ
ちなみに織田信長はわしの8歳年上じゃ
幼い徳川家康(演 : 松本潤)が今川家の人質となると、石川数正はこれに同行しています。


徳川家康の人質生活に同行したのは
石川数正の他に鳥居元忠や平岩親吉もいました
石川数正と徳川家康
今川義元(演 : 野村萬斎)が桶狭間の戦いに討ち取られると、主君・徳川家康は今川家の独立を目指しました。石川数正は尾張(愛知県)の織田信長(演 : 岡田准一)との交渉を行って、清洲同盟を成立させました。
しかし、徳川家康の正室・築山殿(演 : 有村架純)と長男・松平信康(演 : 細田佳奈多)が人質として今川のもとに留め置かれていました。徳川が今川を裏切って織田に寝返ったとなれば、人質の2人は処刑されてしまいます。そこで、石川数正が交渉役として今川家に乗り込み、築山殿と松平信康を今川のもとから取り戻しました。


石川数正は徳川の外交官としての腕がたちますね
徳川家康は三河の統一を目指しましたが、寺から不入の権を認めなかったために大規模な一向一揆が勃発しました。徳川家臣の多くが一向宗に味方し、石川数正の父・石川康正も徳川家康を見限っています。石川数正は浄土宗に改宗して、徳川家康に尽くしました。そのため、石川数正は酒井忠次(大森南朋)、石川家成についで、重用されるようになりました。その後、徳川家康の長男・松平信康が元服すると、石川数正は松平信康の後見となり西三河の旗頭となりました。


石川家成は石川数正の叔父で徳川家康の従兄ですね
石川家成が石川家の本家を任されていたようです
今回のどうする家康では石川家成の要素も含まれた石川数正を描かれているのではないでしょうか
石川数正は内政面での活躍が目立ちますが、軍事面でも活躍しました。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、徳川家康に付き従って武功を挙げています。松平信康と築山殿が武田家との内通が疑われて、切腹させられると、石川数正は岡崎城城代にまで出世しています。


築山事件で石川数正がどのような立ち振る舞いをしたのかははっきりしていません、、、
石川数正の出奔
織田信長が本能寺の変で亡くなり、豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)が台頭し、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(演 : 吉原光夫)に勝利を収めると、徳川家康は石川数正を派遣して、戦勝の祝いをさせています。


このときに石川数正は豊臣秀吉から家臣にならないかと誘いを受けたようです
小牧・長久手の戦いが起こり、徳川家康は局地的な勝利を収めることはできましたが、豊臣秀吉は織田信雄(演 : 浜野謙太)を取り込むことで戦略的な勝利を収め、豊臣政権をかっこたるものとしました。徳川家康は敗戦したわけではないため、豊臣に臣従せず、再び戦を仕掛けようとしました。そんな中、石川数正は徳川家を出奔し、豊臣秀吉のもとに出向きました。この出奔は徳川家に大きな衝撃を与えました。


石川数正という腹心が寝返ったため
徳川軍の軍制は武田流に変更したんじゃ
石川数正の寝返り理由


石川数正がなぜ出奔したのかははっきりしていません
現在、考えられている説をいくつか紹介します!
石川数正は豊臣秀吉にそそのかされた?
前述したように、石川数正は徳川家康が今川家独立以来の外交官でした。そのため、石川数正は徳川家康の名代として豊臣秀吉との交渉を担当していました。その中で、石川数正は豊臣秀吉の器量に惚れ込んだり、豊臣秀吉から多額の恩賞をえさに勧誘されたりしたのではないでしょうか。さらには豊臣秀吉が築いた広大な大坂の町や大坂城を目の当たりにして、豊臣家の圧倒的優位性も感じたのではないでしょうか。


徳川家康は家臣への恩賞が少なくケチだったと言われていますね、、、
石川数正は徳川家康と豊臣秀吉の仲を仲裁したかった?


石川数正がわしらのことを思って
裏切ったという説じゃな
石川数正が出奔した当時、小牧長久手の戦い後で豊臣秀吉があの手この手で徳川家康に臣従を求めていた頃でした。もし、徳川が豊臣に臣従しなければ、豊臣秀吉は小牧長久手の戦いよりも多くの手勢を率いて徳川を潰しにかかろうとしていました。
しかし、徳川家康や徳川家臣団の多くは豊臣秀吉への臣従を拒否し、次なる戦に備えていました。石川数正は度重なる豊臣秀吉との謁見を重ねて豊臣との圧倒的優位を見極めており、豊臣秀吉に勝利することは難しく、徳川は大敗を喫すると考えていたと思われます。
そこで石川数正は徳川に古くから仕えている自分が豊臣に出向くことにより、徳川家康が豊臣との決戦を思い留まらせようと考えたのでしょう。実際、出奔により三河以来の軍体制を武田流に改めており、徳川にとって大きな損害であったことは確実です。


もし石川数正が徳川家のためを思っての出奔であれば
息子たちはもっと幕府から厚遇されていいですよね、、、
石川数正は孤独だったのか?
徳川家康の長男・松平信康は岡崎城の城主を任されていましたが、築山事件により切腹させられると石川数正は岡崎城の城代を務めていました。しかし、松平信康の切腹以来、徳川家の実権が石川数正を筆頭とする岡崎衆(信康派閥)から酒井忠次らの浜松衆(家康派閥)に移ってしまい、徳川での石川数正の立場がなくなってしまいました。


徳川家康と松平信康との間に親子の確執があった説から由来しています
さらに、徳川家では本多忠勝・平八郎(演 : 山田裕貴)や榊原康政・小平太(演 : 杉野遥亮)、井伊直政(演 : 板垣李光人)などの石川数正より若い武断派の家臣との間に対立があったと言われています。また、若い家臣団らは、豊臣秀吉との交渉を通じて石川数正が豊臣に内通・謀反しているのではないかと疑っていたといいます。
このような中で、石川数正は徳川での立場がなくなり、豊臣秀吉から勧誘を受けたために出奔したのではないかという説です。


石川数正と同じ頭脳派の本多正信(演 : 松山ケンイチ)も他の家臣団から毛嫌いされていましたし
武闘派の多い徳川家では頭脳派は居づらいのかも知れませんね
石川数正その後
石川数正が豊臣秀吉の家臣となった際には、河内(大阪府)8万石を与えられています。その後、小田原征伐では、徳川家康に遠慮してか、目立った動きを見せていません。その後、松本(長野県)10万石に転封されると、松本城の大改修と城下町の整備をしました。そして、石川数正は朝鮮出兵のため出陣しているときに亡くなってしまいました。


豊臣政権下では大した活躍はしていませんね
石川数正の死後、石川家は徳川家に再び仕えています
石川数正の子孫
石川数正には4人の男児がいたと言われています。しかし、彼らは大久保長安事件に連座して改易の憂き目にあったため、石川数正の子孫は現在に続いていないと考えられます。
石川数正の長男 : 石川成綱
石川成綱は石川数正の長男でしたが、家督を相続せず、松平信康の近習となったと言われています。その後は徳川家康の次男・結城秀康に仕えたと言われています。


石川数正の庶子だったのか
あまり記録に残っていません
石川数正の次男 : 石川康長
石川康長は石川家の家督を継いだ人物です。結城秀康が豊臣家のもとに人質に差し出されると、弟の石川康勝(勝千代)とともに豊臣家に出向いています。その後、父・石川数正が出奔すると、ともに豊臣家に赴きました。父の死後に石川家の家督を継ぎ、豊臣家に仕えていましたが、関ヶ原の戦いから徳川家康に仕えています。
その後、親戚の大久保長安が失脚したため、石川康長は連座し弟ともに改易されてしまいました。これにより、石川数正の直系の血は途絶えました。


徳川家は一度出奔した石川家を復帰させたくなかったのかも知れませんね
石川数正の三男 : 石川康勝
石川康勝(勝千代)は兄・石川康長とともに結城秀康の人質の供をしています。その後、兄・石川康長と同じように父とともに出奔し、兄ともに連座して改易されています。
大坂の陣では徳川方ではなく、豊臣方の将として出陣し、真田信繁(真田幸村)の与力として戦いました。


真田幸村と一緒に戦ったということは徳川家康をギリギリまで追い詰めたということですよね
戦国時代って何があるかわかりませんね
石川数正の四男:石川康次
石川康次は豊臣秀吉の馬廻り衆として仕えはじめました。石川康次も兄らと同じで、大久保長安事件に連座して改易されています。


石川家の血は石川宗家の石川家成の子孫が現在も続いているそうです