
松平信康は「どうする家康」で細田佳奈多さんが演じている戦国武将ですね
徳川家康の長男で、若き岡崎城の城主!!
しかし、松平信康は父親の徳川家康から自害に追い込まれてしまいました

わしは自害させるつもりはなかったんじゃ、、、

どうして信康は切腹することになってしまったのでしょうか?
松平信康の誕生
松平信康は1559年、徳川家康の長男として駿府(静岡県)に生まれました。幼少の頃の名前は竹千代です。信康の母は家康の正室・築山殿。幼い頃は父親の徳川家康と同様に、今川家の人質として暮らしました。
1560年に桶狭間の戦いが起こり、徳川家康が今川家から独立を果たすものの、信康は母・築山殿や妹の亀姫と一緒に駿府で過ごしていました。ところが、家康が今川家の重臣の鵜殿長照の居城・上ノ郷城を攻略し、長照の子を生け捕りとしました。そして、その子との人質交換により築山殿や亀姫とともに岡崎城に移りました。
また、父・家康が織田信長と清洲同盟を結ぶと、結束力を高めるため、信長の娘・徳姫と結婚。信長から「信」の字を与えられて信康と元服します。


9歳になった頃に形式的に結婚が決まったようですね
将来有望な信康!!
元服後、14歳で初陣を飾ると、その2年後に長篠の戦いに出陣。その後も武田勝頼との合戦で武功をあげ、家康の優れた長男として期待されていました。


長篠の戦いのとき、武田勝頼は思わず
「指揮進退の鋭さは将来が思いやられる」と評したみたい
ところが、正室である徳姫が信長に対して信康が築山殿を通じて武田家と内通しようとしていると密告。これにより、信長は信康に対して切腹を要求し、信康はわずか21歳で亡くなってしまいました。


戦国時代の結婚は同盟の意味と同時に
スパイを送り込むという意味もあったんじゃ
信康切腹事件の真相!!


これからは松平信康がなぜ切腹させられたのかをみていきましょう
とはいえ実際のところははっきりとはわかっていません、、、
徳姫と築山殿不仲説!?
信康の切腹については江戸時代にかかれた「三河物語」での内容が通説化しています。それには信康の妻・徳姫と母・築山殿は仲が悪く、さらに信康は徳姫が娘しか産まないことをなじって、信康と徳姫も不仲になったといいます。そのため徳姫は父・信長にこの事を手紙で伝えて、これを知った信長は激怒し、築山殿が武田家と内通しているということにして信康に切腹を要求したといいます。
このとき家康は信長の家臣同然だったため、逆らうことができずに、信康は切腹することになってしまいました。


この説は信長が娘に甘すぎるように思えますね
信康暴君説!?
信康は普段から気性が荒く、乱暴な振る舞いをしていたようです。
例えば、盆踊りの際に目についた貧相な領民を射殺。また鷹狩りの途中で僧侶に会うと獲物が少なくなってしまうという迷信を信じ、僧侶を縄で縛って絞め殺したいいます。このような経緯から信長が切腹を迫ったという説です。


信康が暴君でも、信長が切腹を迫るのは変ですよね
家康信康不仲説!?
家康と信康は日頃から仲が悪く、家臣の間にも派閥がうまれていたといいます。また、信康の教育は築山殿など旧今川家のものだったため、信康が成人して以来家康のことを敬わず親子の仲が悪くなってしまったそうです。
さらに信康の切腹のとき、信長は「信康を殺せ」ではなく、「家康の思い通りにせよ」と伝えているので、家康が信康と築山殿を疎ましく思っていたのではないかという説です。


これは家康が信康に対して期待していたという話と食い違ってきますね
松平信康の相関図


まとめ
松平信康は徳川家康の長男として将来が有望視されていた戦国武将でしたが、織田信長に内通の疑いをかけられてしまい亡くなってしまいました。


家康は信康のことを相当信頼していたようで、関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅刻したときに
「信康が生きていればこんな思いをしなくて済んだものを」と嘆いたみたい
関ヶ原の戦いの日が信康の命日だったからかもしれませんね


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