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[大河ドラマ・どうする家康]明智光秀(酒向芳)はなぜ裏切った!?最期?生存説はある? 年表 子孫 相関図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する明智光秀

酒向芳さんが演じている本能寺の変を起こした張本人ですね

徳川家康
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明智光秀は非常に聡明な人物であったから

織田家でも凄まじい早さで出世したんじゃよ

しかし、なぜ裏切ってしもうたんじゃ、、、

ひろ
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明智光秀の生涯については謎に包まれていますね

今回はその謎に迫っていきましょう

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明智光秀の年表

明智光秀の出自

明智光秀(酒向芳)は、清和源氏の土岐氏支流、明智氏に生まれました。明智光秀の父親については、具体的な記録はほとんどないため、明らかになっていません。また一部記録によれば、明智光秀の祖先は室町幕府初代将軍・足利尊氏に仕えており、その家系が室町幕府御家人として始まり、後に守護土岐家に仕えたと言われています。

ひろ
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明智光秀は連歌の素養を身に着けていたことから

曽祖父が連歌界の超有名人の明智玄宣(光高)とも言われています

明智光秀の前半生

明智光秀の生年は、信頼性の高い同時代史料が存在しないため不詳です。一方で、「明智軍記」や「当代記」に基づくと1528年説1516年説が存在します。

ひろ
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他には1513年説1526年説1540年説もあります

明智光秀の出生地は、美濃国明智荘明智城が最も有力です。一方で、明智光秀の父が土岐頼武に仕えていたことから、出生地は福光館近辺や、駄智村細野村とも言われています。また、1525年に土岐頼武が敗北した際、明智光秀が越前(福井県)に逃れ、ここで少年時代を過ごした可能性もあります。

さらに、近江(滋賀県)出生説もあり、明智光秀の祖先が土岐氏から六角氏へと移り、近江国犬上郡で生まれ育ったと記述されています。その他にも、岐阜県瑞浪市説同県大垣市上石津町説も存在し、明智光秀の出生地とされる地域は何箇所も存在しています。

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明智光秀の情報が乏しいのは

織田信長を裏切ったことで明智光秀と親しかった人が

友好な関係を隠滅するために記録をすべて廃棄してしまったからでしょうね

明智光秀の主君が斎藤道三から朝倉義景へ

明智光秀の青年期も謎に包まれています。美濃国の土岐氏一族であった明智光秀は、斎藤道三(斎藤利政)に仕えていました。しかし、1556年の長良川の戦い斎藤道三斎藤義龍(斎藤高政)の親子が対立すると、斎藤道三方であった明智光秀は斎藤義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされます

美濃を追われた明智光秀は越前(福井県)の朝倉義景を頼り、約10年間仕えました。この時期から明智光秀の動向が様々な史料を交えながら推測されています。

ひろ
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朝倉家に仕えていた時

明智光秀は下級武士の身分だったそうです

明智光秀と将軍・足利義昭

明智光秀が朝倉義景に仕えていた時、畿内(近畿地方)では将軍・足利義輝が暗殺されました。それを知った弟の足利義昭(古田新太)は奈良の興福寺に入っていましたが、還俗して将軍になることを目指しました。そこで、足利義昭は有力大名の後ろ盾を得るために越前の朝倉義景に接近。この時、明智光秀は足利義昭の側近である細川藤孝(細川幽斎)と共に幕府再興を目指すことになります。

しかし、朝倉義景は足利義昭が越前にまできて協力を要請してきたにも関わらず、足利義昭の上洛を手助けしませんでした。そのため、明智光秀は当時勢力を拡大していた尾張(愛知県)の織田信長(岡田准一)に接触し、上洛の手助けを要請しました

ひろ
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この頃から明智光秀と織田信長が接触するようになったみたいですね

1568年、足利義昭は織田信長の後ろ盾を得て無事に上洛することに成功しました。しかし、翌年には足利義昭は足利義輝を暗殺した三好三人衆に襲撃されました。このとき、足利義昭の窮地を救ったのは明智光秀でした。

徳川家康
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織田軍が京都から撤退するとすぐに足利義昭は窮地に陥ったんじゃ

明智光秀と織田信長

1570年、織田信長が越前の朝倉氏への侵攻中、同盟していた浅井長政が反逆。朝倉軍と浅井軍に挟撃された織田軍は退却を余儀なくされました。その際、明智光秀豊臣秀吉(ムロツヨシ)金ヶ崎での殿しんがりを担当。この金ヶ崎の戦いで明智光秀は朝倉軍の追撃を食い止め、織田軍の損害を抑えることに成功しました。

徳川家康
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金ヶ崎の戦いの頃から

明智光秀は織田軍の戦によく参戦するようになったんじゃ

その後も明智光秀比叡山延暦寺の焼き討ちを成功させ、織田家の戦役で重要な役割を果たしました。その結果、近江滋賀県)約50,000石を領する坂本城の城主となり、正式に織田信長の家臣となったとされています。

明智光秀は信貴山城の戦い丹波攻略有岡城の戦いなどに参戦し、出自不明で低い身分から織田信長の重臣へと上り詰め、戦国時代にその名を轟かせました。

ひろ
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明智光秀は畿内の情勢に精通していたため

織田信長から畿内の制圧を任されましたね

明智光秀の最期

1582年、明智光秀は徳川家康(松本潤)の饗応役を解かれ、豊臣秀吉の毛利攻めの支援を命じられました。しかし、明智光秀はこれに同意せず、織田信長を討つことを決意し、本能寺の変が勃発しました。

明智光秀は本能寺の変を成功させ、織田信長やその長男である織田信忠に仕える残党を殲滅し、畿内を制圧。しかし、本能寺の変の情報を知った豊臣秀吉との間で起こった山崎の戦いで敗れてしまいました。光秀は敗走中に落ち武者狩りに遭い、亡くなったと言われています。

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明智光秀が山崎の戦いで勝利するには

織田信長の首、細川藤孝(幽斎)といった有力武将の協力が必要不可欠でしたね

明智光秀生存説

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明智光秀は山崎の戦いで討たれたと言われていますが

様々な生存説が囁かれています

生存説1 明智光秀は山崎の戦いで討たれていない!?

豊臣秀吉明智光秀との山崎の戦いが起こったのは夏の暑い時期でした。そのため、討ち取られた明智光秀の首が夏の暑さで損傷し、本人確認が不十分であったと言われています。この説では、影武者の首が豊臣秀吉の前に献上され、明智光秀は助かって生き延びたとされています。

生存説2 比叡山に「光秀」の文字

明智光秀は比叡山のある近江(滋賀県)に領地を与えられており、織田信長の家臣時代から比叡山と繋がりがありました。そのため、比叡山が焼き討たれ後は僧たちの面倒をみたといいます。また、明智光秀の生まれ変わりといわれる天海比叡山探題執行ひえいざんたんだいしっこうに命じられて、比叡山の再興に尽力しています。

徳川家康
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探題とは天台宗における重要な位のことじゃ

そのような状況下で本能寺の変以降、比叡山に「光秀」の名前で寄贈された石碑が存在するのです。これは明智光秀が天海となり比叡山再興に力を尽くし、また石碑も寄贈したのではないかと思わせるような説です

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光秀」という字が「みつひで」と読むとは限らないんですよね

生存説3 日光に明智の文字

天海が「明智」の名前を残すため、徳川家康のお墓がある日光に「明智平あけちだいら」という地名をつけたといわれています。

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明智平という地名は現在も残っています

生存説4 春日局は明智光秀と親戚だった!?

徳川家光の乳母である春日局は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘とされています山崎の戦いで明智光秀が敗れると、春日局の父である斎藤利三も捕らえられ処刑されました。春日局も当然ながら追われる身となりましたが、なんとか生き延びることができました。その後、浪人時代に何をしていたのかははっきりしていませんが、浮浪している最中に江戸城で乳母の募集を見つけ、就職したと言われています。

春日局が明智光秀の家臣の子でありながら徳川家の乳母となることが許されたことから、徳川家康が天海の正体が明智光秀であることを知っていたという説もあります。

さらに、明智光秀の重臣・溝尾茂朝の孫である三沢局徳川家綱の乳母として江戸城で働いていました。これらの事実から、徳川家と明智光秀の関係が示唆されているように思われます。

徳川家康
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乳母は母親の代わりに子どもを育てる係じゃ

乳母になるにはしっかりとした出自が必要なんじゃ

生存説5 関ヶ原の戦い後の不可解な戦後処理

豊臣秀吉と明智光秀は本能寺の変の後に山崎の戦いを引き起こしました。この時、諸大名たちはどちらに味方するか迷いました。

京極高次は当時、明智光秀に味方し、合戦後に敗れて逃亡しましたが、関ヶ原の戦いの前哨戦では東軍に属し、西軍と戦いを繰り広げました。京極高次は前哨戦で敗れたものの、関ヶ原の戦いの後に家康から若狭小浜藩(福井県)を与えられました

一方、筒井順慶は明智光秀の寄騎でありながら、山崎の戦いでは味方せず、合戦を傍観しました。そして筒井順慶の後を継いだ定次は関ヶ原の戦いで東軍に味方し、伊賀(三重県)に所領を与えられましたが、すぐに難癖をつけられて改易させられています

さらに明智光秀の孫である織田昌澄大坂の陣で豊臣方に味方しましたが、処刑されずに助命されました。

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戦後処理に徳川家康の黒幕の軍師であった天海が関与していたのかもしれませんね

明智光秀の子孫

明智光秀の子については様々な説が存在しています。今回は「明智軍記」に記載されている3男4女説相関図を書いてみました。また、明智光秀は正室の煕子を愛しており、側室を取らなかったといいますが、側室や前妻がいたという説もあります。

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明智光秀の子孫として広まっている人を紹介します

明智憲三郎(於寉丸?の子孫)【作家・歴史研究家】

細川隆一郎(ガラシャの子孫)【政治評論家】

細川護熙(ガラシャの子孫)【元内閣総理大臣】

クリス・ペプラー(明智光秀の実子かまたは土岐頼勝の子孫)【タレント・ナレーター】

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坂本龍馬が明智光秀の子孫というぶっ飛んだ説も存在しています

まとめ

明智光秀は非常に有名な武将ですが、彼の前半生についてはほとんど知られていません。それにもかかわらず、明智光秀は将軍・足利義昭織田信長に仕え、目まぐるしい功績を挙げて出世を果たしました。

しかし、何が原因であるかはわかりませんが、主君の織田信長との方向性が合わなかったのか、野心を抑えられなかったのか、彼は本能寺の変を引き起こしました。本能寺の変の後、明智光秀は一時的に畿内を支配しましたが、情報を素早く把握した豊臣秀吉によって討ち取られてしまいました。

ひろ
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明智光秀が本能寺の変を起こしたきっかけは不明ですが

私は明智光秀に野心や野望があって天下を取りたかったのではないかと考えています

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