室町幕府13代将軍の足利義輝は「剣豪将軍」として知られているよなー
義輝は何人ものの敵を薙ぎ倒したんじゃ
それで剣豪将軍といわれているんやなー
それでは足利義輝の生涯をみていこう!!
足利義輝の年表
義輝は将軍家と公家の血をひく由緒正しい出生やなー
戦国時代には、血筋など無意味じゃ
足利義輝の相関図
室町幕府の末期だから、
将軍の周りには敵が多いなー
応仁の乱以降、全国各地で戦国武将が誕生したからのー
なかでも三好長慶は畿内の大名をまとめ始めた人物なんじゃー
足利義輝の誕生
足利義輝は1536年、京都に足利義晴の長男として生まれました。義輝の母方は公家の一族であったため、将軍家と公家の間に生まれた義輝の誕生には皆喜んだといいます。
これは、9代将軍足利義尚以来のことやで
鎌倉幕府と違って、室町幕府は朝廷とも仲良くしていたんやな
義輝が生まれた頃の室町幕府は権威が失墜しており、管領である細川晴元が幕府の実権を握っていました。父義晴は将軍の権威を復活させるため何度も晴元と争いますが、敗れてしまいます。
義晴は戦に敗れると近江(滋賀県)に逃げていたんじゃ
近江には有力大名の六角家の本拠地があったからのー
三好長慶との戦い!!
義輝はわずか11歳の時に13代将軍となります。義輝の将軍任命は朝廷からも認められたものであり、さらに対立していた細川晴元も承諾しています。
義晴と晴元は和睦したんじゃなー
義輝が将軍となった頃、細川晴元の家臣であった三好長慶が勢力を拡大していました。長慶は江口の戦いで細川晴元を敗ると、足利義晴と義輝を京都から追放し、三好政権を樹立。
義輝は管領代である六角定頼を頼って京都を奪還しようとしますが、長慶の家臣である松永久秀などに返り討ちにされてしまいます。
このころの長慶は圧倒的な力を誇っていたからなー
さすが天下人やわ
壮絶な最期!!
その後も何度も京都を奪還しようと画策しましたが、三好長慶に阻まれてしまい失敗してしまいます。
そして六角義賢の仲介により、義輝は長慶と和解して5年ぶりに京都へ戻ることに成功します。さらに公家の娘を正室に迎えるなどして、幕政を本格的に再開するようになります。
長慶は幕臣となりましたが、義輝の権威に取り込まれるを懸念して、長男の三好義長に家督を譲り隠居しました。
長慶は義輝と適度な距離を保ちたかったんだろうなー
義輝が京都に戻ってからも、長慶は権力を持ち続けていました。ところが、三好家と争っていた畠山高政や六角義賢が挙兵したことにより、長慶の弟三好義賢が討たれます。その後も長慶は次々に弟や息子を亡くしてしまい、長慶も病で亡くなりました。
長慶は晩年、相次ぐ弟たちの死にショックを受けて
病で倒れてしもうたんじゃ
長慶が亡くなったことで、義輝は室町幕府の権力を復活させようと動き始めます。ところが、三好家の有力者三好三人衆や松永久秀が新しい将軍を擁立しようとしました。
このことで、義輝と三好家は対立。そして三好義継は1万の軍勢を率いて御所に侵入し、義輝は討ち取られてしまいます。
義輝は攻め込まれた時に、50人以上を薙ぎ倒したというよ
さすが剣豪将軍や
まとめ
足利義輝は室町幕府の権威を再興しようと努力しましたが、畿内の有力大名に阻まれてしまい失敗してしまいます。義輝の跡を継いだ弟の足利義昭のときに、室町幕府は滅びてしまい、天下は織田信長のものとなってしまいます。
室町時代は8代目の足利義政のときから不安定やなー
そう考えると、江戸時代は安定しているなー