服部半蔵はとても有名な伊賀忍者やなー
徳川家康に仕えて活躍したなー
「徳川十六神将」の1人にも数えられておる
それでは「徳川の忍者」として知られた服部半蔵の生涯をみていこう!
服部半蔵の年表
半蔵は主君の徳川家康と同い年やねんなー
半蔵は徳川家の家臣の大半が敵に回わった三河一向一揆でも
家康に忠誠を尽くしたんじゃ
服部半蔵の相関図
半蔵の長男は大坂の陣で討たれてしまって
次男が跡を継いだけど、改易されたんやなー
江戸幕府は譜代大名であっても
怪しい動きをみせるとすぐに改易しよるからなー
服部半蔵の誕生
服部半蔵は1542年、三河(愛知県)で服部保長の五男として生まれました。「服部半蔵」という名前は服部家の当主が代々名乗る名前であり、服部正成が本名です。
服部家は飛鳥時代に起こったというよ
朝廷に仕えていたみたい
半蔵が7歳の時、父が半蔵を出家させます。ところが、半蔵は出家を嫌がって寺を脱走。これに父は激怒し、親子の縁を切ってしまいます。
子どもの1人が出家すれば、一族は仏から救われるという言い伝えがあるんじゃ
孤独になった半蔵を4人の兄弟が助け、父との仲をとりもちました。その後、徳川家康に仕えて初陣を飾り、家康の家臣となります。
家康は半蔵を見た時、「目つきが只者じゃない」と思ったみたい
家康に仕えて戦う!!
半蔵は徳川家康に仕えて、合戦に参加し武功をあげます。このことで家康からの信頼を得ます。
合戦での半蔵の活躍はめざましく
「鬼半蔵」といわれたんじゃ
武田信玄が上洛のため、徳川領に侵攻してきたことにより起こった三方ヶ原の戦いでは、一番槍の活躍をします。伊賀衆をまとめる身分となり、服部半蔵の名が知れ渡るようになりました。
伊賀衆をまとめたから
伊賀忍者と思われるようになったんやなー
また、徳川家康の長男松平信康が織田信長から、「武田家と内通しているのではないか」という嫌疑をかけられてしまいます。信康は家康に弁明しますが、聞き入れられず切腹を命じられます。このとき、信康の切腹の介錯を務めることになったのが服部半蔵でした。
半蔵は「三代相恩の主に刃は向けられない」と涙を流しながら家康に訴えたといいます。家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と言い放ち、半蔵をさらに評価したといいます。
家康と信康は仲が悪かったという説が残っているよ
ただ、信康の切腹によって徳川家臣は皆、涙を流したみたい。
決死の伊賀越え!!
本能寺の変により織田信長が亡くなると、各地で反乱が起こります。このとき主君である徳川家康は少数の家臣だけを連れて堺にいて非常に危険な状況でした。そのため家康は本拠地の三河に帰るため「伊賀越え」を決行。
家康は伊賀を知り尽くした半蔵を呼び出します。家康一行は何度も落武者狩りの危機に遭いましたが、半蔵の活躍によりなんとか三河に帰国することに成功しています。
本能寺の変が起きた時
家康はもう無理だと思って切腹を覚悟したというよ
まとめ
服部半蔵は徳川家康に仕えた忍者として天下に知れ渡りました。半蔵は伊賀忍者として有名ですが、半蔵の生まれは伊賀ではありません。また半蔵は忍者ではなく、父の代までが忍者であったという説が濃厚です。
半蔵は伊賀衆をまとめた武将だっただけかもしれないなー
ともかく、半蔵がいなければ家康は伊賀越えを失敗していたかもしれないキーパーソンというわけやなー