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[大河ドラマ・どうする家康]大久保忠世(小手伸也)は織田信長と武田信玄から称賛された?色男の由来とは? 年表 子孫 相関図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する大久保忠世

小手伸也さんが演じている徳川十六神将の1人ですね

徳川家康
徳川家康

大久保忠世は武功に優れておったんじゃ

大久保の庶流でありながら宗家を上回る手柄を挙げたぞ

ひろ
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大久保忠世の生涯はあまり知られていませんね

それに大河ドラマの「色男」の由来はあるんでしょうか?

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大久保忠世の年表

大久保忠世の相関図

大久保忠世の誕生

大久保忠世(小手伸也)は1532年、三河(愛知県)で大久保忠員おおくぼただかずの長男として誕生しました。大久保氏は徳川家康(松本潤)の祖父・松平清康の代から仕えていました。大久保氏は武勇に優れた者が多く、大久保忠世と父・大久保忠員松平広忠(飯田基祐)に従って蟹江城攻めで武功を挙げたために、「蟹江七本槍」の1人に称されました。

ひろ
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大河ドラマでも描かれていますが

大久保忠世は本多正信と関係が深く

本多正信の帰参を支援していました

大久保忠世は織田信長と武田信玄から称賛された

大久保忠世も父・大久保忠員に似て武勇に優れた武将でした。1563年に徳川家臣が二分された三河一向一揆では、徳川家康に従って武功を挙げています。

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大久保氏は浄土真宗が少なかったようです

1572年、武田信玄(阿部寛)は織田信長(岡田准一)を討つために西へ侵攻しました。その手前で徳川家康と三方ヶ原で決戦。若き徳川家康は戦国最強の武田軍に散々な目に遭い、浜松城に逃げ帰りました。

このとき、大久保忠世は武田信玄の陣に夜襲をしかけて、戦の準備ができていなかった武田信玄の部隊に混乱を生じさせたといいます。武田信玄はこの奇襲作戦を仕掛けた大久保忠世に対して、「勝ちても恐ろしき敵かな」と称賛したといいます。

徳川家康
徳川家康

三方ヶ原の戦いでは本多忠勝の戦いぶりも

武田信玄から称賛されておったの

1574年、徳川家康が武田勝頼(眞栄田郷敦)が支配していた遠江(静岡県)の犬居城を攻めた際、大久保忠世は敵兵の抵抗により崖の下に落とされてしまいました。しかし、大久保忠世は崖を這い上がって、待ち伏せしていた敵兵3人を一度に斬り倒したといいます。

1575年、織田・徳川連合軍が武田勝頼を長篠・設楽原の戦いで大量の鉄砲を用いて勝利しました。この戦いでは、大久保忠世は弟・大久保忠佐らと協力して活躍し、織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との称賛を受けたといいます。さらに徳川家康からは軍功の褒美としてほら貝を与えられ、二俣城(静岡県)の城主となりました。

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ほら貝は元々、合戦の道具ではなく

法事や魔除けに使われていたといいます

大久保忠世は小田原城主

1590年、豊臣秀吉(ムロツヨシ)が難攻不落といわれた小田原城を攻略すると、徳川家康は関東地方に移封。その時、豊臣秀吉は小田原城の城主を大久保忠世にすることを命じました

徳川家康
徳川家康

小田原城は武田信玄でも上杉謙信でも落とすことができなかった名城じゃな

小田原城主となった大久保忠世は氾濫を繰り返して暴れ川となっていた「酒匂川さかわがわ」の治水に取り組みました。ところが、治水工事完了前の1594年に大久保忠世は63歳にしてこの世で亡くなりました

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大久保忠世が亡くなった後は

長男の大久保忠隣が治水工事を完成させて

流域の新田開発にも尽力しました

大久保忠世の子孫

大久保忠世は家督を長男の大久保忠隣おおくぼただちかに譲りました。関ヶ原の戦いの後には相模国小田原(神奈川県)6万5千石で初代藩主となりました。1610年には徳川秀忠の老中に就任し、幕府内で権力を握っています

しかし、長男の大久保忠常が亡くなると、意気消沈して政務を欠席したために徳川家康から不興を買いました。さらに徳川秀忠からの誘いも断ったこともあり、1614年に改易されて近江(滋賀県)に流罪となりました。

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大久保家の改易には本多正信・本多正純親子が関係しているともいわれています

大久保忠隣の孫・大久保忠職おおくぼただたかはこれまでの大久保家の功績や妻の祖母が亀姫(徳川家康の娘)であることを考慮されて、武蔵騎西きさい2万石となって大久保家の存続を許されています。後に5万石、8万3千石に加増されて肥前唐津藩主となっています。その後、大久保家はいくつかの転封を経て、小田原藩10万3千石を拝領しました。

江戸時代の末期には大久保家は徳川斉昭の兄の五男・大久保忠礼を養子として、明治を迎えました。それ以降の大久保家の継承者ははっきりとしていません。

ひろ
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幕末でも大久保家は徳川家と深い関係を築けていたんですね

まとめ

大久保忠世は武功に優れた武将であり、織田信長武田信玄からも称賛された武将でした。大河ドラマ・どうする家康では大久保忠世は「色男殿」として徳川家臣団から呼ばれていますが、これの由来ははっきりとわかりませんでした。

また、大久保忠世には弟に「三河物語」を書いた大久保忠教おおくぼただたか(彦左衛門尉)がいます。三河物語は徳川史観の歴史書物です。大久保忠教は徳川の世に当時の体制に不満を持っていた武功派に支持され、「天下のご意見番」と呼ばれていました。

ひろ
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大久保忠世は突然、お金が必要になったときに備えて

1ヶ月の内に7日間は食事を一切取らない日を設けるという大掛かりな倹約を死ぬまで続けたといいます

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