前田利家といえば槍の名手で
正室まつとのおしどり夫婦として有名な戦国武将やな
利家はわしと幼いころから仲がよくて
豊臣の繁栄に力を尽くしてくれたんじゃ
利家と秀吉さんって幼い頃からの中なんか
それでは前田利家の生涯をみていきましょう!!
前田利家の年表
一度織田家を追い出されているのは興味深いところやな
気性の荒い性格のせいじゃなー
前田利家の相関図
利家の周りには有名武将がずらりとならんでいるな
前田利家の誕生
前田利家は1539年、尾張(愛知県)に前田利春の四男に生まれました。幼少名は犬千代といい、成人したころの利家は身長180cmあったとも言われているほどの大男であったといわれています。
また喧嘩ぱっやく、派手好きで、6mもある槍を持ち歩いていたので「槍の又左」と呼ばれていました。
利家は豊臣秀吉とともに尾張おおうつけ織田信長と仕え、信長の寵愛を受けていました。このころ利家と秀吉は家が近所であったことから仲がよく、家族ぐるみの付き合いをしていたといいます。
ともに親方様をささえたんじゃー
それにわしの正室のねねとまつも仲がよかったんじゃよ
ある時信長の家来である拾阿弥が盗みを働いたとして信長の前で斬り殺しました。信長はこのことに激怒し利家を織田家から追い出します。ところが、無断で桶狭間の戦いに参加し、首を三つ討ち取りました。その後森部の戦いに参加して信長に認められると、織田家に返り咲きます。
この利家の行動はまつが促したみたいやで
友か?上司か?利家の決断は?
信長に織田家への出仕を許されてからは信長のもとで働き武功をあげていきました。
利家は四男であったにも関わらず前田家の家督を継ぎました。これは兄の利久が病弱であり子どももおらず、利家のほうが戦で活躍していたために、信長が利家を前田家の当主に推薦したからでした。
また利家は信長の警護を任されるほどの槍の名手でした。信長と浅井朝倉連合軍が争った姉川の戦いでは、浅井長政の家臣浅井助七郎を討ち取って「日本無双の槍」と称されます。
また一乗谷の戦い、長島一向一揆、長篠の戦いなどで首級をあげて、信長から信頼されるようになります。
利家といえば槍の名手ってイメージやな
信長は利家に柴田勝家の与力になるように命じました。勝家のもとでさまざまな戦を経験した功績が認められて、越前に10万石を与えられます。
利家は勝家との関係はよかったんだけどなー
本能寺の変後変わってしまうんやー
1582年に本能寺の変が起き、信長は亡くなりました。これにより友の豊臣秀吉と上司の柴田勝家が信長の後継者争いを始めます。
両者の話し合いは決着がつかず、秀吉と勝家が賤ヶ岳の戦いを起こしました。このとき利家はどちらにつけばよいか悩ましく、結局合戦に参加することなく撤退してしまいます。利家の行動が決定的となり勝家は敗北してしました。
勝家殿は利家が寝返っても
一切とがめることなく受け入れたというぞ
その後は秀吉のもとで戦に参加し、加賀(石川県)、能登(石川県)、越中(富山県)の百万石を与えられ、生涯ついていくことになります。
利家は上司で柴田勝家を裏切るのは心苦しかっただろうな
とはいえ秀吉に仕えたことで加賀百万石の礎を築いたのか!
豊臣家の繁栄に力をつくす
秀吉が1598年になくなると豊臣家を徳川家康からまもる唯一無二の存在であることは間違いありませんでした。利家は自分でもそのことをしっかりと理解していたようで、秀吉の財産分与を細かく指定しました。また秀吉の息子秀頼の後見人となっています。
利家は秀吉から本当に信頼されていたんやな
利家は1599年に亡くなりましたが、最期まで豊臣家を思っていました。そのことを示す逸話が残っています。
利家の死の直前、家康が見舞いに前田邸を訪れたことがありました。すでに前田利家の病状はすでに悪化しており、いつ亡くなってもおかしくない状況でした。
このとき利家は布団の中に短刀を忍ばせており、家康が秀頼を軽んじるような事を言った場合には即座に刺し殺す準備をしたいました。
まさに利家の豊臣を思う気持ちを表す逸話です。
利家はわしのことをおもって…
それにしても家康を封じておくの重要じゃったな
まとめ
前田利家は豊臣秀吉との幼馴染で仲がよかったようです。そして生涯を豊臣家の繁栄に尽くしたともいえる戦国武将でした。
また利家はいつもそろばんを戦場に持参しており、戦場での兵糧や兵器などの資産管理に気を配っていたといいます。
さらに前田利家で有名な話が正室のまつとの仲の良さです。二人の間は合計11人もの子供を授かったといいます。さらにまつは読み書きそろばんのできる賢い女性で、利家が亡くなってからも前田家の存続のために力を尽くしました。
利家の活躍の影にはまつの存在が影響していたんやな