厳島の戦いは
弱小大名だった毛利元就が謀略を尽くし
中国地方の有力大名陶晴賢を討った戦いやな!
陶晴賢は自身の主君を謀反で討ち破って成り上がった武将じゃが
元就公の巧みな奇襲攻撃によって討たれてしもうたの
厳島の戦いは日本三大奇襲攻撃にも数えられる戦いやしな
元就はどのようにして大軍を打ち砕いたのかみてみよう!!
合戦の背景
1500年代前半の中国地方では、山陽地方を中心に大内義隆、山陰地方には尼子経久の二大勢力が覇権を握っていました。毛利元就をはじめとする中国地方の諸大名はどちらにつくかを迷っていました。元就ははじめ尼子家についていましたが、のちに大内家につきます。
あるとき大内義隆の重臣陶晴賢が、主君と仲違いのすえに謀反を起こします。この反乱に便乗して元就は義隆征伐に参加し、その後晴賢に従うようになります。
これを大寧寺の変といって
有名な本能寺の変にならぶ一大クーデターだな
戦国一計算高い元就の謀略!!
大内家を乗っ取った晴賢でしたが大内家の家臣と対立してしまい、これに呼応して元就も晴賢と対立しました。晴賢は元就が離反したために、毛利領に攻め込んできました。
両者には圧倒的な勢力差があるため、元就は大軍相手には正攻法で戦っても勝てないと考えて、晴賢の腹心江良房栄に謀反の疑いがあるとの情報を流して晴賢を混乱させます。
また元就は配下桂下澄が晴賢のところに出向いて「寝返ります」と嘘の発言をさせたりして、晴賢を揺さぶりました。これらのことで混乱した晴賢は江良房栄を殺しました。
晴賢は元就が築いた宮ノ尾城を陥落させるために厳島に攻め込んできます。このとき毛利軍はたった600で陶軍2万もの大軍の攻撃をしのぎます。これは大軍を狭い厳島におびき寄せるための罠だったのです。これにより陶軍は厳島で身動きが取りづらい状況となってします。
そこに元就はわずか3000の兵で陶軍の背後を突きました。このとき嵐が吹き荒れており、夜9時だったといいます。嵐の中でも攻め込めたのは瀬戸内海をおさめていた村上水軍のおかげでした。
桶狭間の戦いも大雨の中の奇襲攻撃じゃったな
奇襲攻撃するには相手の油断しているときにせないかんのー
身動きの取りづらくなっている陶軍を一気にたたき、毛利軍は奇襲攻撃に成功しました。
晴賢は奇襲攻撃をうけたことでパニックに陥り自害してしまいます。
元就の戦は合戦前の根回しからはじまるなー
兵力の差は地形でカバーするんやな
使えるものはなんでも使うのが元就の戦
厳島の合戦後の元就の快進撃
晴賢の後ろたてがなくなった大内家は無力化し、元就に攻められて滅びました。こうして元就は中国地方での勢力拡大での最初の一歩を踏み出したのでした。
毛利家に味方した村上水軍は毛利家の水軍に組み込まれることになったなー
次に元就が狙うのは山陰地方の尼子家ですが、元就は慎重な動きを見せました。元就は正親町天皇の即位費用を負担したり、室町幕府に遣いを送るなど、中央政権とのパイプつくりを始めます。
さらに九州の大友家との争いをさけ、山陽地方での地盤固めをはかります。そして10年かけて足固めしたのちに、満を持して尼子家を攻め滅ぼすのでした。
元就殿は急に領土を拡大したから
領民の反乱を恐れたんじゃろな
まとめ
厳島の戦いは毛利元就の名前を一気に有名にした戦いでした。大勢力であっても油断したら、弱小勢力に敗れてしまう戦国の厳しい世の中を表した戦いです。
弱小大名でも一発逆転のチャンスがあるところが戦国時代の醍醐味やな