鳥取城渇え殺しとは、日本史上でも珍しい人が人を喰らう地獄が繰り広げられた合戦やな
信長殿の命を受けた秀吉殿が鳥取城攻めを行ったんじゃよ
そして、この戦いには涙無くしては語れない物語があるんだよなー
それでは鳥取城渇え殺しについて見ていこう!
合戦の経緯
勢力を拡大していた織田信長は上洛を果たすと、周辺の大名と多くの合戦を繰り広げていました。豊臣秀吉は信長の命を受けて、中国地方制圧に向けて侵攻。秀吉は順調に勢力を拡大し、ついに毛利家の勢力範囲まで侵攻し、鳥取城攻めに取りかかりました。
秀吉殿は財力や物資、労働力を最大限に活用して
味方の被害を最小限にする戦い方をしたんじゃ
鳥取城の城主は山名豊国でしたが、すぐに秀吉に降伏したため、家臣から追い出されていました。そこで、鳥取城の家臣たちは吉川家の棟梁であった吉川経家を城主にします。経家は武勇に優れ、聡明でしたが、過酷な任務を予想して首桶を持って鳥取城に入城しました。
山名豊国は鳥取城攻めで秀吉に味方して
その後も生き延びて江戸時代まで生きた武将だな
渇え殺し!!
経家が入城したことにより、鳥取城の城兵は4千となりましたが、豊臣軍は2万。数の上では圧倒的に不利であったため、経家は籠城戦を選びました。
籠城戦には食糧の補給や備蓄が大事です。このとき、鳥取城にはわずか3ヶ月分の備蓄しかなかったため、すぐに近くの商店へ米を買いに行かせました。しかし、城近辺の米が豊臣軍によって全て買い取られていたのです。
豊臣軍は相場よりも高値で米を全部買いとったんじゃ
城内の兵の中には米を売るものがいたというぞ
こうして秀吉は陸路だけでなく、海路や河川も封鎖して鳥取城への補給路を断ちました。豊臣軍は鳥取城を包囲するだけで、それ以上のことはなにもせず、鳥取城の兵糧が尽きるのを待ち続けました。
そして、鳥取城の兵糧が底を尽きると、家畜や雑草を食べ始め、ついには餓死者が出るほど。さらに極限状態となった城兵は先に亡くなった者を食べるようになり、中にはまだ息のある人間さえ食べたといいます。
1番おいしかったのは脳みそだったそうで、
奪い合いになったそうだよ
吉川経家の苦悩
こうした状況を見かねた経家は秀吉に降伏。自らの切腹と引き換えに城兵の命を懇願しました。ところが、秀吉は経家の才能を惜しみ、「鳥取城の家臣たちの自害だけでよい」と伝えます。
山名豊国は降伏したのに、鳥取城の家臣たちが織田家に戦いを挑んだから
吉川経家は悪くないと秀吉は考えているのか
秀吉は経家の命を助けたかったのですが、彼の意思は固く、秀吉は泣く泣く申し出を受け入れました。そして、経家は家臣たちと別れの盃を交わして切腹して果てました。
秀吉殿は経家の首を見るなり
「哀れなる義士かな」といって男泣きされたぞ
信長でさえその首を丁重に扱ったというもんなー
経家は切腹前にいくつかの遺書を用意していました。
吉川家の宗家・吉川広家宛には、
「毛利と織田の間で切腹できることは末代までの名誉です」
と書かれています。
また子どもに宛てたものには、
「父は200日堪えたが兵糧が尽きてしまった。私ひとりの命で皆の命が助かり、一門の名をあげるのだ。そんな幸せな話を生き残ったものから聞いてくれ」
と子どもが読めるようにすべてひらがなで書かれました。
経家は35歳で亡くなったんだ
まだまだ道半ばだったのに残念だ
まとめ
鳥取城渇え殺しは派手さはないものの、じわじわ追い詰める兵糧攻めの恐ろしさを表した戦いです。こんな悲惨な戦いを起こした秀吉は残忍な人物と捉えれるかもしれませんが、いつ自分の命が奪われるかわからない戦国時代では致しかたなかったのかもしれません。
秀吉は自分の兵は戦わせず大事にしたしなー
この作戦を考えついたのは黒田官兵衛じゃな