立花道雪は西日本一の武将・立花宗茂の父で、大友宗麟を支えた猛将だな
道雪は酒色に溺れる主君にズバズバものをいって諌めたんじゃ
道雪は部下には優しいけど、主君に厳しかったんだ
それでは立花道雪の生涯をみていこう!
立花道雪の年表
道雪はもともと戸次姓で立花城の城主となってから立花姓を名乗ったんやな
道雪は1人娘の誾千代を立花城主にしたんじゃ
立花道雪の相関図
道雪は主君の宗麟にズバズバものをいっていたから
叱られることを察した宗麟は道雪に寄り付こうしたなかったそうだよ
そこで、道雪は京都から踊り子を招いて宗麟を誘き出したというぞ
立花道雪の誕生
立花道雪は1513年、戸次親家の長男として誕生しました。戸次家は大友家の支流で重臣でしたが、母を早くに亡くし父は病弱であったため、戸次家の力は弱まっていました。
そこで道雪は、病弱な父に代わって初陣にも関わらず、総大将に志願して2千の兵を率いました。奇襲攻撃によって、5千もの敵軍を蹴散らし、戸次家を再興させます。
道雪の武勇には遠く離れた甲斐(山梨県)の武田信玄にも知られていたよ
信玄は一度でいいから対面したかったみたい
雷親父!?
道雪が35歳くらいの時、大木の下で昼寝をしていると、突然空が曇ってきて激しい雷雨に見舞われました。雷鳴が鳴り響くと、道雪は名刀・千鳥を抜き放って雷を切り捨てたといいます。雷に打たれたことにより、一時的に半身不随となったものの回復。雷を断ち切った刀は雷切という名に変え、家宝となりました。
雷に打たれて歩けなくなり、輿にのって移動したという説もあるよ
大友家の当主・大友義鑑は長男の宗麟を廃嫡とし、溺愛していた三男・塩市丸を後継者にしようとしていました。道雪は宗麟派の家臣とともに、大友館の2階で寝ていた大友義鑑と大友塩市丸を襲撃し、宗麟に家督を継がせました。また、道雪はお家騒動で宗麟に敵対した家臣を徹底的に討伐しています。
このお家騒動は2階で起きたから、二階崩れの変と言われておる
主家を想う
1578年、大友宗麟は島津領へ軍を進めようとしていました。道雪はこのことに反対していましたが、宗麟は島津家と耳川の戦いを起こし、大敗してしまいます。
このとき、道雪は北九州方面の合戦にでており、耳川の戦いには従軍しておらず、合戦を指揮した重臣たちを批判しています。そして、島津家の勢力が次第に拡大してくるも、道雪や高橋紹運などの重臣の活躍で大友家は勢力を守り続けました。
耳川の戦いで敗れたころから、大友家は弱小化していったんじゃ
道雪や高橋紹運は北九州の守りを固めるために奮闘。道雪は自らが大将となった合戦では生涯負けることはなく、「鬼道雪」と称されていました。
道雪は常々、「勇将の下に弱卒なし」と口にしており、弱い兵がいるとすればそれはすべて大将の責任と考えていました。道雪は家臣に対して分け隔てなく接し、手柄を上げれなかった家臣にはいつも激励したといいます。そのため、道雪と家臣たちは深い絆で結ばれており、連戦連勝を重ねることができたのでしょう。
激励された家臣は次の合戦には必ず手柄を挙げたというよ
まとめ
立花道雪は主君に諫言することで大友家の繁栄を支えた名将であり、合戦では家臣との深い絆で連戦連勝を重ねた猛将でもあります。最期の最期まで主君のために戦い続けた道雪にはこんな逸話が残っています。
「私が死んだら屍に甲冑を着せ、柳川の方に向けて埋めよ。この命に背けばわが魂は必ず祟りをなすであろう」という遺言を残して道雪は陣中で亡くなりました。しかし、このまま埋める訳にもいかないと考えた家臣たちは、「道雪様の祟りなら本望」と考えて立花城まで遺体を搬送しました。その間敵対する島津軍からの追撃はなく、なかには死を悼むものまでいたそうです。
道雪は亡くなったあとでも大友家のために忠誠を尽くそうと考えたんやな
道雪亡き後は急速に大友家は衰退してしもうた