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[どうする家康・登場人物]徳川家康を激怒させた大岡弥四郎とは?

大河ドラマ
ひろ
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どうする家康」の第20話で登場する大岡弥四郎(大賀弥四郎)

毎熊克哉まいぐまかつやさんが演じている戦国武将ですね

徳川家康
徳川家康

岡崎城で信康の面倒をみてくれる信頼のたる人物かと思ったら

とんでもないことを企てておったわい、、、

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大岡弥四郎なぜ徳川家康を裏切ってしまったのでしょうか?

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大岡弥四郎の誕生

大岡弥四郎大賀弥四郎)が出自については不明です。算術が得意で「徳川家康」に重用され、徳川家康の長男で、岡崎城の城主の松平信康に仕えています。そこで岡崎町奉行にまで出世したと言われています。

徳川家康に仕えるまでは、侍と小者の間にある中間として働いていたといわれています。

ひろ
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松平信康の長男の傍らで働いていたことから

徳川家にとって信頼の足る人物だったことは間違いないですね

また、本名は大「岡」弥四郎ですが、よく大「賀」弥四郎と表記されることがあります。これは、事件が起こったことため、大岡一族に配慮して「大賀弥四郎」という名前になったと言われています。

大岡弥四郎は何をしたのか?

松平信康に仕え、浜松城岡崎城を往復しており、徳川家から非常に信頼の厚い人物でした。ところが、1575年に「大岡弥四郎事件」が起こってしまいます。

ひろ
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1575年は長篠の戦いで織田信長が武田勝頼に圧勝する前だから

まだまだ武田の脅威がおさまらない頃の出来事です

事の顛末は次の通りです。

「大岡弥四郎事件」とは、1575年に大岡弥四郎徳川家康松平信康を裏切り、武田勝頼に内通して、岡崎城内に武田軍を引き入れようとした事件です。その理由として次のことが噂されています。

武田信玄が亡くなったとはいえまだまだ武田の力は巨大であったため、三河(愛知県)を武田の支配下として、松平信康を徳川家の当主としようとした説

武田軍を岡崎城に引き込んで松平信康を殺害しようとした説

悪事を働いていたため家財が没収されたことに恨みを抱いた説

ところが、この計画は参加者の1人である山田八蔵の密告により失敗に終わってしまいます。そのため、徳川家康の知るところとなり、岡崎城は無事でした。

徳川家康
徳川家康

山田八蔵は謀反を食い止めたから加増されたんじゃ

そして、首謀者の大岡弥四郎は引き回しの上に生き埋めにされ、7日間もの間、竹のこぎりで首を引かれたといいます。妻5人は磔の刑に処され、2人いた娘たちは出家して尼となりました。

また、同じように共謀に加わった松平新右衛門は自害、小谷甚左衛門は討死、倉地平左衛門は甲斐(山梨県)へ逃亡する結果になりました。また、事件に関与していない大岡弥四郎の同輩の江戸右衛門七も、この事件の責任を問われて処刑されました。

ひろ
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大岡弥四郎が謀反を起こすきっかけとなったのは

武田勝頼が遣わした歩き巫女(大河ドラマでは千代)が入り込み

松平信康を国主する提案に築山殿(瀬名)が参加した説が濃厚ですね

徳川家康がここまで激怒した理由とは?

ひろ
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裏切りは大罪だけど

ここまで徳川家康が激怒したのはどうしてだろうか?

大岡弥四郎が武田勝頼に内通したために起こった「大岡弥四郎事件」ですが、徳川家康の正室・築山殿(瀬名)が関わっていたとされています

当時、織田信長は武田を警戒しており、同盟相手の徳川家康にも警戒させていました。しかし、大岡弥四郎事件から4年後には諸説ありますが、築山殿松平信康武田勝頼に内通したことが織田信長に露見してしまいます。また同時期には徳川家康の伯父の水野信元も武田への内通が疑われて処刑されています。

つまり、徳川家康は武田との内通する者への監視を強化していた時期だったというわけです。

ひろ
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大岡弥四郎事件では、築山殿(瀬名)や松平信康は処刑されなかったけど

後々に処刑されてしまったのか、、、

大岡弥四郎のエピソード

ひろ
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大岡弥四郎の素行が悪かったために処刑されたという説もあります

一体どんな性格だったのでしょうか?

大岡弥四郎は能力に恵まれていたことから、徳川家康松平信康親子に非常に気に入られていました。大岡弥四郎はそのことを鼻にかけ、家臣の中で自分が一番だと勘違いしてしまいます。その結果、他の家臣が意見できないほどになり、権力を振りかざすようになります。

また、大岡弥四郎の人となりを表すエピソードが残っています。

武将たちにとって、戦での武功などが評価され領地が増えることは良いことです。しかし、大岡弥四郎は近藤壱岐(徳川譜代の武士)の加増は「大岡弥四郎の口添え」があったと言いました。このことに近藤壱岐はひどく激怒し、せっかくの加増を辞退してしまいました。

さらに、この件は徳川家康の知るところとなり、大岡弥四郎は横暴であると判断されてしまいます。そのため、徳川家康は大岡弥四郎の家財をすべて没収しました。その際に没収した家財の中から大岡弥四郎が武田勝頼に内通する書状が出てきたといいます。

ひろ
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大岡弥四郎の裏の顔は忠義や忠誠のない人物だったかもしれませんね

大岡弥四郎事件の動機として様々な説が考えられていますが、様々な説を考慮した結果、大岡弥四郎は徳川と武田のどちらに味方した方が有利となるか打算的に考えて行動したのかもしれません。長篠の戦いが起こる前は圧倒的に武田勝頼が有利でした。そのような中で、大岡弥四郎が自身の大岡一族を繁栄させるために、武田と手を組もうとするのは必然でしょう。

徳川家康
徳川家康

当時の徳川家は織田信長に命令されて動いてばかりで

家臣たちは徳川家の行く末を憂いていたのかもしれんな

大岡弥四郎の相関図

恐ろしすぎる処刑3選

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大岡弥四郎事件は岡崎城を乗っ取ろうとした事件としても衝撃的ですが

その処刑方法も衝撃的なものでした

今回は戦国時代に行われた衝撃的な処刑方法を一挙紹介します

火刑

火刑は主に放火を行ったものに処された刑。罪人は市中引き回しの後、竹枠で組まれた柱に縛りつけられます。そして竹枠に藁をつまれ、火をつけられたといいます。なかなか絶命しない苦しい刑でした。

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江戸時代には残酷すぎるということで

あまり行われなくなったそうです

比叡山延暦寺。織田信長は敵対していた比叡山の僧侶を
寺に閉じ込めて火を焼き放った。(比叡山)

穴吊るしの刑

江戸時代に入ってから隠れキリシタン棄教を迫るために行われた処刑法。罪人は地面に空いた穴へ逆さに吊るされました。さらに罪人がすぐに亡くならないようにこめかみに少し穴を開けていたともいわれています。

痛みに耐えられないキリシタンは処刑中に棄教することで解放されました。この処刑法は亡くなるのに4日ほどかかる刑法であったといわれています。

ひろ
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ほとんどのキリシタンは棄教したけど

ローマに出向いた中浦ジュリアンは耐え続けて亡くなったといいます

中浦ジュリアン。天正遺欧少年使節団として
ローマまで出向いた。(wikipedia)

釜茹での刑

戦国時代に現れた天下の大泥棒石川五右衛門に行われた刑法です。五右衛門は市中引き回しの後、三条河原で子どもと一緒に処刑されました。通説では熱湯で茹でられたといわれていますが、実際にはで揚げられた説が有力となっています。

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五右衛門はあまりの熱さに子どもを下敷きにしたといいます

石川五右衛門。五右衛門風呂は
石川五右衛門の釜茹でが由来。(一陽斎豊国作)