立花誾千代は西国一といわれた立花宗茂の妻で
女城主となったことでも有名な女性だな
誾千代は武装して合戦に参加することもあるほどの武闘派だったんじゃ
男顔負けの強さ!!
それでは立花誾千代の生涯をみていこう!
立花誾千代の年表
誾千代の「誾」は慎み人の話を聞くという意味!
誾千代は「西国一美しい姫」といわれたんじゃが
聡明で快活な性格でハキハキとものをいう性格だったからじゃろな
立花誾千代の相関図
誾千代の父・立花道雪は雷神といわれ
義父・高橋紹運は風神といわれた猛将
だからそこ誾千代と宗茂は武勇に秀でた武将だったんじゃろな
立花誾千代の誕生
立花誾千代は1569年、豊後(大分県)に立花道雪の娘として生まれました。父・立花道雪は九州の大名・大友宗麟に仕え、手腕を奮った人物です。
道雪には息子がいなかったため、当時7歳の娘・誾千代が家督を相続。跡取り息子がいないとはいえ、他の家から男児を養子として迎えいれて、家督を譲ることが一般的です。ところが道雪は誾千代を相当期待していたようで、主君の大友宗麟に頼み込んで正式な手続きを踏み、誾千代に家督を譲りました。
道雪は主君・大友宗麟にズバズバものをいって、酒に溺れる宗麟を諫めたことで有名だよ
道雪と宗麟には深い信頼関係があったんやろなー
天下に知れ渡る武勇!!
13歳になると、大友家の家臣・高橋紹運の長男・立花宗茂を婿として迎えいれて、誾千代は結婚。
道雪は宗茂の武勇にほれこんでおって
紹運に何度も何度もお願いをして宗茂を婿として迎えいれることに成功したんじゃ
豊臣秀吉が勢力を拡大したことにより、主君の大友家が改易されると、立花家は大名として独立。宗茂は13万石の大名として柳川城に入城しています。
誾千代は自分が生まれ育ち、父の墓がある立花城から柳川城へ移されることを相当嫌がったらしいよ
夫宗茂が豊臣秀吉の命により朝鮮へ出陣すると、留守となった柳川城を守ったのが誾千代でした。誾千代は武装し、「女子組」といわれる立花家の女性たちで編成された部隊を統率。名護屋城に出向いて豊臣秀吉と謁見すると、秀吉はその姿に相当驚いたといいます。
薙刀や鉄砲の腕前はかなりのものだったんじゃ
加藤清正を圧倒!?
豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起こると、誾千代は情勢を見極めて宗茂に東軍につくよう説得。ところが、宗茂は豊臣への恩を報いるため西軍につきます。
宗茂は石田三成とともに大津城の戦いで活躍しますが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、すぐさま柳川城へ帰国。
誾千代には大局をみる能力もあったみたいやなー
帰国してくる宗茂隊をみた誾千代は武装し、柳川城に侵攻してくる鍋島直茂や加藤清正を撃退します。このとき清正は「さすが立花山の女城主。自軍の兵をみすみす損ねることもあるまい」といって引き返したといいます。
関ヶ原の戦い後、徳川家康によって立花家が改易されると、宗茂とともに浪人生活をすることになります。
このとき2人は不仲であったことから別居状態であったといわれています。一方で改易される際に誾千代は神に「私の命に代えて、夫をもう一度世に送り出したまえ」と祈ったともいわれています。この祈りから2年後、誾千代は亡くなりました。
誾千代の祈りがあったからか
宗茂は大坂の陣で徳川方について大名に返り咲くんだ
まとめ
立花誾千代はわずか7歳で女城主となった武将で、夫・立花宗茂を支えたことで有名です。また、戦国時代には全国各地で女城主の逸話が残っていますが、資料にはっきりと残っているのは誾千代だけです。
誾千代と宗茂が不仲といわれているのは、2人の間に子供ができなかったから
さらに一次資料の中で不仲と裏付けるものはないぞ