
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する寧々・北政所は
和久井映見さんが演じている豊臣秀吉の正室ですね

豊臣秀吉の天下取りを最も間近で見てきた女性じゃな
しかし、関ヶ原の戦い頃から徳川にも協力的だったんじゃ

北政所は徳川政権下でどのような動きをしたのでしょうか?
そして、不仲と言われる淀殿との関係は一体?
北政所の年表


北政所の相関図


寧々?北政所?高台院?名前について
豊臣秀吉の正室は様々な呼び名で呼ばれており、「寧々」や「北政所」、「高台院」などがあります。
「北政所」は関白や摂政の正室に与えられる称号です。そのため、1585年に豊臣秀吉が朝廷から関白に任命されて以降、豊臣秀吉の正室は北政所と呼ばれるようになりました。一般的には、北政所と呼ばれるのは夫が関白である期間限定ですが、豊臣秀吉の正室の場合、北政所という名前が定着しています。
「高台院」は北政所が朝廷から高台院の号を賜った後、尼僧となり、豊臣秀吉の冥福を祈るために徳川家康の後援を受けて京都に高台寺を建立したことに由来します。その後、寺の門前に屋敷を構えました。
「寧々」は豊臣秀吉の正室の諱(本名)であると言われています。ただし、諱については諸説あり、「ねね」、「おね」、「ね」など、様々な説が存在します。「大河ドラマ『どうする家康』」では、「寧々」が採用されています。
本記事では「北政所」と表記しています。


女性の名前は表に出ることが少ないため
わかっていないことが多いです
北政所は豊臣秀吉の正室
寧々・北政所(演:和久井映見)は、杉原定利と朝日殿の次女として誕生しました。兄弟には木下家定、長生院、長慶院がいます。北政所は、叔母・七曲殿の嫁ぎ先である浅野家に養女として迎えられました。
1561年、北政所は豊臣秀吉(演:ムロツヨシ)に嫁ぎました。この時、母・朝日殿は身分の差を理由に反対しましたが、兄・木下家定の説得によって嫁ぐことができました。ただし、結婚式(祝言)は、周囲からの反対と豊臣秀吉の貧乏性から、藁を敷いて行われる質素なものでした。


浅野家は土岐氏の流れを組む
由緒正しき武家だったから
朝日殿は反対したんですね


母・朝日殿は豊臣秀吉が出世した後でも
結婚を認めることはなかったんじゃ
北政所とは?
北政所は夫・豊臣秀吉の出世を支える役割を果たします。1573年に豊臣秀吉が長浜城主(滋賀県)に任命された際、北政所は夫が不在のときに城主代理として城内を取り仕切りました。また、北政所と豊臣秀吉の間に子がいなかったため、親戚の子どもである加藤清正(演 : 淵上泰史)や福島正則(演 : 深水元基)、さらには豊臣秀吉の子飼いの家臣である黒田長政(阿部進之介)や石田三成(中村七之助)の面倒も見ていました。


北政所に面倒を見られた武将たちは
豊臣政権を支える有力な家臣に成長していきました
1585年、夫・豊臣秀吉が朝廷から関白に任命されると、北政所も関白の正室として大きな発言力と影響力を持つようになりました。さらに1588年には、後陽成天皇が豊臣秀吉の邸宅である聚楽第に行幸した際、北政所がその手筈を整えたとされ、「従一位」の称号を与えられました。


従一位を与えられた女性はこれまで7人しかおらず
実に500年ぶりの快挙だったようです
北政所と淀殿は不仲?


よく2人は不仲であったといわれますが
本当のところはどうなんでしょうか?
通説では北政所と淀殿が不仲であったことから、北政所のことを慕う豊臣恩顧の大名たちは豊臣秀頼に従わなかったといわれています。北政所は豊臣秀吉亡き後、徳川の世に合わせるべきと主張しました。反対に淀殿は豊臣が天下を取り仕切り、豊臣秀頼が1番であると主張したためです。


それに正室だけど子どものいないねねと、
側室だけど子どものいる淀殿が対立する構図は
想像しやすいから不仲といわれているのでしょうか?
他の説では、北政所は他の側室たちと一緒に祭りや遊びに行ったり、淀殿が懐妊したを知ると安産祈願におこなったりという記録が残っています。つまり、北政所と淀殿の関係は良好であったといえます。
ところが、淀殿が出産を無事に終えれるように住まいを変更し、豊臣秀吉の母・大政所が亡くなったりしたため、豊臣家で連携が取れなくなってしまい疎遠になったといいます。


秀吉は庶民出身であったから
家族との関わりを大切にしたい人物
ねねや淀殿との間にいさかいがあれば仲介していただろうな
北政所と徳川家康、徳川秀忠の関係性
豊臣秀吉が亡くなると、北政所を取り巻く情勢も大きく変わりました。北政所は淀殿と協力し、豊臣秀頼の後見を務めました。さらに、関ヶ原の戦いの頃から徳川家康(演 : 松本潤)に接近し、豊臣家が生き残る可能性を模索していたとされています。
関ヶ原の戦いが起こると、加藤清正、福島正則など、北政所に養育された大名たちが彼女のもとを訪れました。その際、北政所は実力のある徳川家康に味方するべきだと伝えたと言われています。


北政所は大名をも動かすほどの影響力を有していたということですね
関ヶ原の戦い後、北政所は豊臣秀吉の遺言に従い、豊臣秀頼(演 : 作間龍斗)と千姫(演 : 原菜乃華)の婚儀を見届けた後に仏門に入りました。豊臣秀吉と実母・朝日殿の冥福を祈るため、高台寺を建立しました。
その後の大坂の陣では、大坂城に入城しないよう江戸幕府から監視され、身動きを取れないまま豊臣家の滅亡と大坂城の落城を目の当たりにしました。しかし、徳川家との関係は良好であり、徳川秀忠(演 : 森崎ウィン)と高台寺での交流や、北政所主催の二条城での能観劇が行われたとも言われています。そして、豊臣秀吉の死から26年後、豊臣家が滅亡してから9年後の1624年に76歳で亡くなりました。


徳川家は北政所に対して
1万7千石を与えていたそうです
北政所が豊臣秀吉の浮気を織田信長に相談
豊臣秀吉が織田信長(演 : 岡田准一)の家臣だった頃、豊臣秀吉は子どもを産まない北政所に対して辛くあたり、浮気を繰り返していました。北政所は豊臣秀吉の態度に苦しみ、思わず織田信長に相談しました。織田信長は北政所に対して非常に細やかな思いやりに溢れた書状を送った。
この間、あなた(織田信長)にも会いましたが、以前にもまして綺麗になっているではありませんか。ハゲネズミ(豊臣秀吉)があなたの不満を色々言うみたいですが、言語道断!
あなた以上の奥さんをハゲネズミがもらうことなどないのだから、堂々としていればそれでよいのです。この手紙を秀吉にもみせてやりなさい。
と北政所を励ましたと伝えられています。