
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する大野治長は
玉山鉄二さんが演じている豊臣秀頼の側近ですね

大野治長は最後まで豊臣秀頼と茶々の側にいた重臣じゃ
わしのことを相当嫌っておったぞ

大野治長は豊臣秀頼の父親ではないかという説が囁かれていますが
真相は一体どうなのでしょうか?
大野治長の年表
年表 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1569? | 1 | 大野定長の子として生まれる |
?? | ?? | お市、茶々らに付き従う |
1583 | 15 | 北ノ庄城が落城する |
1588?? | 20? | 豊臣秀吉の馬廻り衆となる |
1589 | 21 | 豊臣秀吉から1万石を与えられる |
1594 | 26 | 伏見城の普請を行う |
1599 | 31 | 徳川家康の暗殺計画を企てるも露見し流罪 |
1600 | 32 | 徳川家康に罪を許される |
1600 | 32 | 関ヶ原の戦いで福島正則の部隊に属する |
1614 | 46 | 大坂冬の陣 |
1615 | 47 | 大坂夏の陣で自害 |
大野治長の相関図


大野治長は浅井長政の家臣だった?
大野治長(演:玉山鉄二)は、1569年頃に大野定長と大蔵卿局の子として生まれました。母・大蔵卿局は浅井長政(演:大貫勇輔)とお市(演:北川景子)の子・茶々(演:北川景子)の乳母であったため、父・大野定長は浅井長政の家臣であったと考えられます。


大野治長は茶々と幼なじみだったようですが
よくわかっていません、、、
大野治長と母・大蔵卿局は、小谷城が落城して以降、茶々に仕えていたとされています。しかし、北ノ庄城落城後は、その所在すらわからなくなりました。


大野治長の前半生は全く不明ですね、、、
大野治長は茶々と大蔵卿局のおかげで出世できた?
1588年頃に茶々が豊臣秀吉の側室となった際、大野治長は太閤蔵入地の和泉佐野(大阪府)と丹後大野(京都府)に1万石を与えられました。この頃、大野治長は特に目立った業績がなかったことから、茶々や母・大蔵卿局が豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)に口添えしたとされています。


大野治長が活躍した訳ではなく
茶々や大蔵卿局の動きとは、、、
大野治長は徳川家康から追放された?
豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康(演:松本潤)が天下を取るために動き始めました。これに反発した大野治長は、前田利長、浅野長政、土方雄久と共謀して、徳川家康の暗殺を企てました。しかし、五奉行のうちの1人、増田長盛が徳川家康に密告したため、事前に計画は阻止され、大野治長は流罪に処されました。


「どうする家康」でも大野治長があからさまに
徳川家康に反発している様子が描かれていましたね
関ヶ原の戦いの直前に罪が許された大野治長は、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、福島正則の部隊に属しました。その際、宇喜多秀家の鉄砲隊を討ち取る武功を挙げました。関ヶ原の戦い後、徳川家康から「豊臣への敵意なし」という書簡を受け取り、江戸から大坂に戻りました。


大野治長が関ヶ原の戦いでは東軍に与していたとは驚きですよね
大野治長と片桐且元は対立していたのか?
関ヶ原の戦い後、徳川は豊臣への臣従を何度も要求しました。そして、方広寺鐘銘事件が勃発し、豊臣重臣・片桐且元が徳川方との交渉に携わりました。しかし、徳川は豊臣方を混乱させるため、交渉にあたった片桐且元と大蔵卿局の扱いを異ならせました。これにより、片桐且元は謀反を企てているのではないかと疑われ、豊臣家中から反感を買いました。
大野治長は、片桐且元の謀反を疑い、豊臣家中での自身の地位を高めるため、片桐且元を亡き者にしようと暗殺を企てました。しかし、片桐且元は暗殺されずに大坂城を退城し、徳川家康のもとに赴きました。そして、大野治長が主導する立場で大坂冬の陣が始まりました。


長年に渡って豊臣を支えてきた重臣の片桐且元を追放するほど
豊臣方は疑心暗鬼になっていたのかもしれませんね
大野治長は全国各地から豊臣方に味方する浪人衆を集めました。その際、同郷の毛利勝永や豊臣秀吉の馬廻り衆であった真田信繁(真田幸村)へ手紙を送り、招集に成功しました。その後、大坂冬の陣は茶々の妹・初と徳川家康の側室・阿茶局(演:松本若菜)の交渉により和睦し、決着しました。


大野治長は真田幸村や毛利勝永と仲が悪いように描かれますが
実際は古くから親交があったようですね
大野治長は豊臣秀頼と茶々の側に最後まで
大坂夏の陣では、大野治長は大坂城本丸の守備を担当しました。また、紀伊(和歌山県)で一揆を扇動しようとしましたが、この計画は失敗しました。豊臣軍は誉田合戦や天王寺の戦いで壊滅し、大野治長は大坂城に撤退しました。そして、豊臣秀頼に出陣を進言しましたが、速水守久が豊臣秀頼の出馬を諫めたため、大野治長は豊臣秀頼とともに本丸に立てこもることになりました。


大野治長がひょうたん印を掲げて本丸に戻ったせいで
豊臣方の士気が下がってしまったという説もありますね
豊臣方の敗北がほぼ確定したとき、大野治長は徳川家康の孫娘・千姫を大坂城から脱出させ、徳川家康と徳川秀忠に豊臣秀頼と茶々の助命を嘆願させようとしました。徳川家康は助命に迷いましたが、徳川秀忠は千姫が豊臣秀頼と共に自害しなかったことに激怒し、助命の嘆願を拒否しました。これを聞いた大野治長は、豊臣秀頼と茶々と共に大坂城で自害しました。


徳川秀忠が助命嘆願を受け入れなかった1件を
よく徳川秀忠が変わった瞬間としてドラマで描かれていますね
豊臣秀頼の本当の父親はだれ?
大野治長とは?
大野治長は浅井長政の家臣の子として生まれ、その母は大蔵卿局でした。大蔵卿局は茶々・淀殿の乳母を務めたことから、大野治長と茶々は同い年で、彼らが幼馴染みであった可能性が指摘されています。
大野治長は後に豊臣秀吉の馬廻衆として3千石で召し抱えられ、茶々が鶴丸を出産した頃には1万石を持つ大名となっていました。大坂の陣では、豊臣家の重臣として豊臣秀頼と茶々を最後まで支え続けました。


目立った功績を挙げていない大野治長が側近として取り立てられているのは
茶々や大蔵卿局が豊臣秀吉や秀頼に口添えしたからとしか思えませんね、、、
疑惑1 身長の一致
豊臣秀頼は当時としては異例の身長190 cm、体重160 kgという大柄な体躯を持っていました。その母、茶々も身長180 cm近くとされ、大柄だった浅井長政の血を引いていると言われています。一方、豊臣秀吉は「猿」と評されるほどの小柄な男性でした。このような背景から、大柄な豊臣秀頼の父親として、身長が高いとされる大野治長が候補として考えられるのではないでしょうか?


大坂城の近くの玉造稲荷神社には豊臣秀頼の像がありますが
非常に体格のよい豊臣秀頼の像がありますよ


疑惑2 大坂の陣で最後まで豊臣秀頼と淀殿のもとに
大野治長は豊臣方の武将として、大坂の陣で最後まで戦いました。その際、豊臣秀頼の妻で、徳川家康の孫娘である千姫に、豊臣秀頼と茶々の助命を嘆願する手紙を持たせ、大坂城から脱出させました。
その手紙には、「この合戦の責任は全て大野治長にあり。私の切腹を条件に、秀頼公と淀殿の助命を求める」と記されていました。しかし、その願いは叶えられず、大野治長は最後まで豊臣秀頼と淀殿の側に居続け、大坂城で命を終えたと伝えられています。


豊臣秀頼と大野治長が親子なら最期まで一緒にいるのは当然ですよね


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