筒井順慶は松永久秀のライバル武将やな
順慶は大和を中心に活躍した武将じゃ
それに「洞が峠を決め込む」と「元の木阿弥」という古事成語を残したんじゃ
順慶の逸話が古事成語になったんか
それでは筒井順慶の生涯をみてみよう!!
筒井順慶の年表
信長さんに仕えることで
大和一国を治めることができたんやなー
順慶は松永久秀と何度も争ったが、
なんとか領土を確保したんじゃ
筒井順慶の相関図
明智光秀に従っていたのに
本能寺の変の後、秀吉に味方したんやなー
順慶はしっかり状況を読めるかしこい武将じゃ
筒井順慶の誕生
筒井順慶は1549年、大和(奈良県)に筒井順昭の子として生まれました。大和では代々、興福寺が守護を務めていました。ところが戦国時代にはいると順昭は勢力を拡大して、大和一国をほぼ手中に治めます。
しかし順慶が2歳の時、父順昭は病で亡くなります。
そこで順昭は死に際、自身の家臣たちに
「順慶が元服するまで自分の死を隠せ」
と遺言し、順昭によく似た僧である木阿弥を影武者に立てていました。
木阿弥は影武者を務めていた間は贅沢に暮らし、順慶が成長して元服すると元の身分に戻されたといいます。このことから「元の木阿弥」という言葉が生まれました。
影武者は形だけで政治などは叔父の順政が担当しておったんじゃ
木阿弥って人の名前やったんか
宿敵松永久秀!!
順慶が元服したころ、三好長慶が京都で中央政権を牛耳り、その重臣松永久秀は大和に目を向けていました。
久秀は将軍足利義輝を暗殺すると、その勢いのまま順慶の居城筒井城に侵攻。攻め込まれた順慶は城を奪還され、大和から追放されてしまいます。
ところが翌年久秀と仲違いした三好家の重臣三好三人衆と協力して、順慶は筒井城を取り戻すと、三人衆や池田勝正とともに久秀の多聞城を包囲。
しかし、久秀は将軍足利義昭を上洛させて力をつけていた織田信長の支援のもと、城の包囲をはねのけ、再び順慶を筒井城から追放。
次第に信長と将軍義昭の関係が悪化すると、義昭が順慶を支援。順慶は将軍の力を借りて、久秀から再び筒井城を取り返します。
最終的にわしと久秀が仲違いをしたから
わしの力を得た順慶が大和を制圧したんじゃ
順慶と久秀は何度も何度も争ってるなー
順慶は武将であると同時に僧でもあったから、領民とも信頼関係があったというよ
天下分け目で日和見の順慶
順慶は明智光秀の斡旋により織田信長に仕えるようになり、数々の戦いに参戦して武功を挙げました。そして信長から信頼されて、大和一国を任せられます。
大和一国の大名とはいえ光秀の寄騎(子分)じゃったから
それほどの力はもっていなかったんじゃ
本能寺の変の後、豊臣秀吉と明智光秀の間で山崎の戦いが起こると、順慶は光秀から味方するように誘われました。
味方するか迷っていた順慶は洞が峠に陣を敷いて光秀と秀吉のどちらにつくか日和見をしたといいます。合戦の様子をみていると、秀吉の方が優勢であるとわかったため、秀吉に臣従。
実際には洞が峠に陣を敷いたのは明智光秀で
順慶は居城の郡山城でどちらに着くか迷っていたみたい
まあ遅刻したのは確からしい
ところが、順慶がなかなか参戦しなかったことに秀吉は激怒。順慶は秀吉に叱責されたことにより体調を崩し、さらにこの話が大和中に伝播して人々を混乱させました。
叱責されたことをよほど気にしていたのか、小牧長久手の戦いに参戦して帰国後、病で亡くなりました。
順慶は文化人としての才能も備えていたから
36歳で亡くなったのはもったいないのー
まとめ
筒井順慶は日和見武将として濡れ衣を着せらてしまった悲しい武将でした。ところが実際には、織田信長をも困らせた松永久秀と互角に渡り合い、大和一国を平定した実力の持ち主であると思います。
順慶はかなり優秀な武将であったといえるなー