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[大河ドラマ・どうする家康]本多正信(キャスト:松山ケンイチ)はいつ戻る?本多忠勝との関係は? 年表 子孫 家系図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する本多正信

松山ケンイチさんが演じている徳川家康参謀ですね

徳川家康
徳川家康

わしは本多正信を信頼しておったが

徳川家臣の多くは本多正信を嫌っていたものも多かったんじゃ、、、

ひろ
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どうして本多正信は嫌われてしまったんでしょうか?

また、本多正信はいつ徳川家に戻ったのでしょうか?

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本多正信の年表

本多正信と本多忠勝との関係

本多正信の誕生

本多正信ほんだまさのぶ(演 : 松山ケンイチ)は1538年、三河(愛知県)に本多俊正の次男として誕生しました。祖父、父の代から松平家に仕えていたため、本多正信も松平家の徳川家康・松平元康(演 : 松本潤)に仕えていました。

本多正信の青年期については不明な点が多くありますが、桶狭間の戦いの前哨戦となる丸根砦の攻略に主君・徳川家康に従って出陣しています。その時に膝を負傷してしまい、以来、足を引きずるようになりました。

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はじめは徳川家康の鷹匠として仕えたようです

本多正信は三河一向一揆で徳川家康と敵対!?

徳川家康が今川家から独立した後も、本多正信は家臣として仕え続けました。しかし、三河一向一揆が起こると、本多正信は徳川家康を見限って一揆勢に与しました。このとき、徳川家康の家臣の多くが離反して、一揆勢に味方しています。

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本多正信は敬虔な一向宗徒だったと言われています

徳川家康
徳川家康

わしが一向宗の不入の権を認めんかったから

一揆が起こったんじゃ

しかし、本多正信側の一向一揆は徳川家康によって鎮圧されます。裏切った家臣の多くは徳川家康に許しを請い、徳川家に帰参しました。しかし、本多正信は徳川家を出奔して京に向かった後、加賀(石川県)に赴いたと言われています。加賀では一向一揆の将として向かい入れられ、織田信長(演 : 岡田准一)と戦ったと伝えられています。

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加賀は一向宗の勢力が強くて信徒らが国を治めていました

本多正信は伊賀越えで帰参した?

徳川家を出奔した後、本多正信が各地を放浪していた頃の動向については不明です。その間に大和(奈良県)の松永久秀に仕えていたとも言われています。松永久秀は本多正信について、「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかし、ひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評したと伝えられています。

本多正信は徳川家臣の大久保忠世(演 : 小手伸也)のとりなしによって徳川家臣に復帰することとなりました。本多正信の帰参時期については諸説ありますが、早ければ1570年の姉川の戦いの時であり、遅くとも本能寺の変の頃と言われています。

徳川家康
徳川家康

本多正信が貧乏で生活に苦しいとき

大久保忠世は塩、味噌、薪などを送っていたんじゃ

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今回の「大河ドラマ・どうする家康」では

本多正信は伊賀越えの頃に帰参しそうですね

本多正信の再登場!!

本能寺の変により織田信長が亡くなると、徳川家康武田の統治下にあった甲斐(山梨県)と信濃(長野県)の制圧に取り掛かりました。この際、本多正信は甲斐と信濃の統治を任され、旧武田家臣を徳川家臣として受け入れる条件で呼び集めました

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徳川家康は織田信長と違って切り取った国の兵を家臣に取り入れるのが上手ですよね

徳川家康が豊臣秀吉に臣従し、徳川家臣に官位が与えられた際に、本多正信は従位五下・佐渡守に任じられました。そのため、本多正信は「佐渡守」と呼ばれることもありました。

小田原征伐の後、徳川家康が関東に転封されると、本多正信は相模玉縄(神奈川県)に1万石の大名となりました。さらに、江戸での普請監督も務めました。この時、本多正信は雨の日でも風の日でも朝早くから現場に赴き、指揮を執る姿勢で徳川家康の信頼を得たと言われています。

ひろ
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本多正信は一度徳川家康を裏切っているから

帰参後は精一杯働いたんでしょうね

本多正信と真田幸村

関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の部隊に従軍しました。このとき、本多正信は真田昌幸(演 : 佐藤浩市)、真田幸村・真田信繁(演 : 日向亘)との直接対決を避けて、関ヶ原に向かうことを進言しました。しかし、徳川秀忠はこれを聞き入れずに、真田との対決に臨み敗北してしまいました。

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この出来事で本多正信は次期当主を徳川秀忠ではなく

次男の結城秀康を推薦したといいます

関ヶ原の戦い後に徳川家康が天下を取ると、本多正信は江戸幕府を開くために朝廷との交渉役として尽力しました。さらに、本願寺の教如と准如兄弟が仲違いしていたことを機に、本願寺を「東本願寺」と「西本願寺」に分裂させることに成功しました。これにより、本願寺の勢力を削ぎました。

徳川家康
徳川家康

本多正信は交渉が得意なんじゃよ

徳川家康が征夷大将軍を徳川秀忠に譲り渡すと、本多正信は徳川秀忠付けの年寄(老中)として幕政に参画しました。その際に、本多正信は徳川家康を支えてきた武闘派の家臣を江戸から遠ざけています。そのため、本多忠勝からは「佐渡の腰抜け」、榊原康政からは「腸の腐れ者」と批判されました。

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本多正信石田三成と役割りが似ていますね

1613年、本多正信は暇を出されています。しかし、1614年、1615年の大坂の陣では息子の本多正純を裏で支持していたと言われています。そして、1616年に徳川家康が亡くなると、家督を譲って亡くなりました。

徳川家康
徳川家康

享年79歳とはわし(75歳)より長生きじゃったな

本多正信の子孫

本多正信には正室・寿林尼との間に3男2女の子どもがいたとされています。本多正信は戦国武将としては珍しく側室を持っていませんでした。

長男・本多正純は父・本多正信の後を継いで大坂の陣での交渉役として活躍しました。しかし、徳川家康や本多正信が亡くなると、徳川秀忠や徳川家康の長女・亀姫から疎ましがられ、失脚してしまいました。

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亀姫は徳川家康と正室との間の子なので

幕府内で権力を握っていたんでしょう

次男・本多政重は荒々しい性格の持ち主であると知られ、仲間内で諍いとなって出奔しました。その後、宇喜多秀家に仕えて、関ヶ原の戦いでは西軍として出陣しています。西軍でしたが、父・本多正信の子であったために追放は免れました。関ヶ原の戦い後は、福島正則前田利長上杉景勝に仕えて、最終的に前田家に帰参しました。幕府が前田家から領地を没収しようとしたときには、2度に渡って防いだと言われています。

ひろ
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本多正信の子なのに

西軍の将とは、、、

三男・本多忠純は下野榎本藩(栃木県)を与えられ、藩政を充実させていたという。しかし、非常に性格が荒々しく、家臣さえも手打ちにすることを厭わない人物であったために、家臣に謀反に遭って亡くなりました。

長女は三浦重成に嫁いでおり、次女は小栗重勝に嫁いでいます。また、本多正信の子孫は長男の本多正純の子が美濃(岐阜県)で生き延び、現在にも続いているようです次男の本多政重は前田家の筆頭家老として仕え続け、現在にも続いています。三男の本多忠純の榎本藩は改易されています。

まとめ

本多正信三河一向一揆の際に徳川家康と敵対。そして各地を流浪後、再び家康に仕えています。徳川家に出戻ってからは、参謀として活躍しました。

ひろ
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正信と家康の意見が一致しないときには、正信は寝ている振りをしたみたい

そして家康が意見を変えると、起き上がって家康を褒め称えたというよ

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