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[大河ドラマ・どうする家康]徳川家康から絶大な信頼を得た平岩親吉・七之助(岡部大)とは? 年表 子孫 相関図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する平岩親吉

岡部大さんが演じている徳川家康の忠臣ですね

徳川家康
徳川家康

平岩親吉は伯父の水野信元への襲撃や

長男の松平信康の切腹に関わるなどと大変な任務ばかり担当させてしもうたな

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平岩親吉は徳川家康から絶大な信頼を得ていたようですが

その理由とは一体?

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平岩親吉の年表

平岩親吉の誕生

平岩親吉・七之助(ハナコ・岡部大)は1542年に三河(愛知県)で誕生しました。平岩家は平岩親吉の祖父の代から松平家に仕えています。また、平岩親吉は徳川家康(岡田准一と同じ年に生まれたこともあり、今川家への人質生活にも同行して、遊び相手として過ごしました。

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徳川家康の親友のような存在でしょう

平岩親吉は松平信康の守り役

1558年、平岩親吉徳川家康の初陣に従って、自身も初陣を果たすと、三河一向一揆などで活躍して徳川家康からの信頼を獲得しました。その後、徳川家康の長男・松平信康(細田佳奈多)が元服すると、平岩親吉は世話役に任ぜられました。

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三河一向一揆平岩親吉が討ち取られそうになると

徳川家康が救援したといいます

徳川家康に代わって松平信康が岡崎城主となると様々な事件が勃発。1574年、武田勝頼(眞栄田郷敦)が放った忍びにより、松平信康の家臣・大岡弥四郎が凋落されて謀反を起こす事件が起きてしまいます。内部の裏切りにより未然に防ぐことに成功しています。

また、1576年には徳川家康の伯父・水野信元(寺島進)が仲の悪かった佐久間信盛(立川談春)の讒言により、織田信長から謀反の疑いをかけられてしまいます。織田信長は徳川家康に処刑を命じ、その実行役を平岩親吉に任せました。水野信元は懇意にしていた久松長家(リリー・フランキー)から大樹寺に呼び出されると、平岩親吉によって暗殺されました。平岩親吉は水野信元を斬ったのちその屍を抱き上げて、「信元殿に私怨はないが、君(徳川家康)命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたといいます。

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織田信長は佐久間信盛の讒言とわかると

水野信元の弟の水野忠重に水野家の再興を任せました

平岩親吉と築山事件

平岩親吉は様々な難事件を乗り越えながらも岡崎城で松平信康のもとで仕えてきた武将でした。しかし、そんな平岩親吉にとって最大の事件が勃発しました。

松平信康が母の築山殿・瀬名(有村架純)とともに武田勝頼と通じているとの内容が織田信長に露見されてしまいます。さらに、松平信康の正室・五徳(久保史緒里)は松平信康と築山殿の悪行を織田信長に手紙で伝えています。これらのことから、織田信長は徳川家康に対して松平信康と築山殿の切腹を命じました。

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この事件にはついては謎が多く

真相はまだまだ闇の中です

このとき、平岩親吉はこの事件を食い止めることができなかった責任をとって、自身の首を差し出そうとしました。しかし、それでは松平信康の処断を防ぐことができず、二人は切腹させられてしまいます。平岩親吉はこのことに責任を感じ、蟄居謹慎しました。

徳川家康は平岩親吉が屋敷から一歩も外に出なくなったことを見かねて、松平信康の遺臣たちを平岩親吉に預けて面倒を見るように伝達。平岩親吉はこれに応じて、再び徳川家康の直臣として返り咲きました。

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徳川家康から相当信頼されていることが伺えますね

平岩親吉と徳川義直

平岩親吉はその後も徳川家康のもとで仕え続け、本能寺の変で織田信長が死去すると、甲斐(山梨県)と信濃(長野県)の攻略を開始しています。1583年には甲斐(山梨県)を平定し、平岩親吉は甲府城を開始しました。平岩親吉は武田の旧臣たちを取り込み、国力増強を図ったといいます。

1590年の小田原城攻めで武功をあげると、3万3千石を与えられ、さらに関ヶ原の戦い後には甲府6万3千石与えられています。

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平岩親吉は実子がいなかったために

徳川家康の八男を養子として迎え入れています

これは唯一の例であり、それほどまでに徳川家康が平岩親吉を信頼していたとわかります

徳川家康の九男の徳川義直がわずか4歳で甲斐25万石の大名に任ぜられると、徳川家康は後見人として平岩親吉を任命しました。その4年後の1607年に徳川義直が尾張(愛知県)の清州藩主となると、平岩親吉は犬山藩主として12万石を与えられています。

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徳川義直は尾張徳川藩の藩祖ですね

平岩親吉の子孫

平岩親吉は1611年に70歳で大往生を遂げました。実子がいなかったために平岩家は断絶となってしまいます。

しかし、徳川家康は平岩家が断絶となることを惜しみ、平岩親吉の子であるという噂の子を見つけ出して、その子を平岩家の後継ぎにしようとしました。ところが、その子が実子ではないと言い張ったために、平岩家は平岩親吉の死をもって断絶となってしまいました

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平岩親吉の一族は姫路藩家老職として存続して

その子孫は現在でも存続しているそうです

まとめ

平岩親吉徳川家康と同い年であったことから、幼い頃から徳川家康に仕えた忠臣でした。松平信康の世話役に任されるも、築山事件を食い止めることができず、蟄居謹慎してしまいます。しかし、徳川家康からの信頼が厚かったため、直臣として取り立てられた。甲斐の国の平定を任せられた後に、徳川義直の後見人として徳川尾張藩家老職を任ぜられています。