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[大河ドラマ・どうする家康]鳥居元忠(音尾琢真)が徳川家康のために捨て身!?血天井とは? 年表 子孫 相関図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康」で登場する鳥居元忠

音尾琢真さんが演じている徳川家康の腹心ですね

徳川家康
徳川家康

鳥居元忠は幼い頃からわしに仕えている武将なんじゃよ

わしのために捨て身で伏見城まで守った武将でもある

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鳥居元忠はどうして捨て身で伏見城を守ることになったのでしょうか?

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鳥居元忠の年表

鳥居元忠の誕生

鳥居元忠とりいもとただ・彦右衛門(音尾琢真)は1539年、三河(愛知県)に鳥居忠吉(イッセー尾形)の三男として生まれました。鳥居元忠には2人の兄がいましたが、長男の鳥居忠宗は合戦で討ち死にしており、次男の本翁意伯ほんおういはくは早くから出家していたために、三男の鳥居元忠が家督を継ぐことになります。

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父の鳥居忠吉は松平家の勘定も任せられていて

徳川家康のために岡崎城に財宝を溜め込んでいたといいます

また、父・鳥居忠吉は徳川家康(松本潤)の父・松平広忠に仕えていました。そのため、幼い頃から鳥居元忠は徳川家康に仕えており、今川義元のもとで人質生活をしているときも同行しています

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徳川家康とは4歳差と年が近かったから親しかったといいます

鳥居元忠は徳川家康の忠臣

桶狭間の戦い今川義元(野村萬斎)が敗れると、主君・徳川家康は今川家から独立。鳥居元忠は徳川家康に従って、三河統一姉川の戦い長篠の戦いに出陣して数々の活躍をしました。

徳川家康
徳川家康

三方ヶ原の戦いに出陣した際に片足が不自由になってしまったが

その後も合戦で活躍したんじゃよ

本能寺の変織田信長(岡田准一)が亡くなると、全国各地で反乱が勃発。家康は武田領へ侵攻していた北条家と合戦をはじめます。このとき、北条軍の別働隊は徳川家康の背後から奇襲攻撃を仕掛けようとしていました。鳥居元忠はこのことに気づくと、わずかな手勢で北条軍を撃退。このことが徳川家康から称賛され谷村城の城主となります。

ひろ
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1万の北条軍を鳥居元忠は2000の兵で撃退!!

しかも北条勢には500もの死者がでる大惨事だったといいます

その後も徳川家康に従って上田合戦小田原城攻めに出陣。徳川家康の本拠地が江戸に変わると、鳥居元忠は下総(千葉県)4万石の大名へ出世しました。そして、鳥居元忠は隣国常陸(茨城県)の佐竹家や東北地方の諸大名を監視する役割を家康から任せられます。

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鳥居元忠豊臣秀吉から家臣にならないかと誘われたことがあっても

断って徳川家康に仕え続けた忠義ものです

鳥居元忠捨て身の覚悟!!血天井とは?

豊臣秀吉(ムロツヨシ)が亡くなると、徳川家康は天下取りのため動き始めました。徳川家康は豊臣政権で力をもっていた上杉景勝に謀反の疑いがあるとして上杉領へ侵攻

徳川家康は出発の前に鳥居元忠と酒を飲み交わしながら、

わしは手勢不足のため伏見に残すは3000 ばかり。そなたには苦労をかける」と徳川家康がいうと、

そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人(徳川家家臣)で事足ります。将来、殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城(伏見城)に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄です。一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい

と鳥居元忠は答えたといいます。

ひろ
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徳川家康はこの言葉に深く感心して

夜遅くまで鳥居元忠と酒を飲み交わしたそうです

徳川家康の会津侵攻を知った石田三成は挙兵し、鳥居元忠が籠る伏見城へ攻撃を開始。伏見城の城兵はわずか1800人で、西軍9万3千を相手に奮戦。13日間も耐え抜きましたが、多勢に無勢で鳥居元忠は討死。鳥居元忠やその家臣たちのかえり血は伏見城の天井に飛び散り、現在も残っているほど壮絶な合戦となりました。

徳川家康
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鳥居元忠はまさに「三河武士の鑑」じゃ

鳥居元忠の子孫

鳥居元忠が伏見城で討ち死にする前に後継ぎの鳥居忠政に遺書を書き残しています。その中で自身が伏見城に立て籠もることは「もののふの道」であり、武士としては至極真っ当なことであると伝えています。そして、徳川家康の恩義は忘れることなく、「このかたじけなさ、何代先でも忘れてはならない」と伝えています。

ひろ
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鳥居元忠の姿から徳川家臣団は

犬のように忠節」といわれた所以かもしれません

徳川家康は鳥居元忠の死を悲しみ、後継ぎの鳥居忠政には山形藩24万石を与えています。さらに、その子・鳥居忠恒やその孫の鳥居忠則が不祥事を起こした際に、改易の憂き目にあったにも関わらず、鳥居元忠の功績が大きいとして厳封や移封で収まっています。

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鳥居家は何回かの移封の後に下野壬生藩で幕末を迎えています

まとめ

鳥居元忠は幼い頃から徳川家康に仕えた忠臣。関ヶ原の戦い前に、石田三成に挙兵させるという大役を家康から任せられ、伏見城で合戦を繰り広げました。元忠の忠義は天下に知れ渡ることとなり、「三河武士の鑑」として讃えられています。

ひろ
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鳥居元忠のような忠節な家臣がいなかったら

徳川家康は天下を取ることができなかったのかもしれません

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