
「どうする家康」で登場する千代は
古川琴音さんが演じている歩き巫女・武田の忍びですね

三河一向一揆のときにわしと空誓との間を取り持った人物じゃな

千代は重要人物との関わりが深いようですが、一体何者なんでしょうか?
それに千代は本当に実在したのでしょうか?
千代の正体は?
「どうする家康」で歩き巫女や武田の忍びとして描かれている千代。千代のモデルとなった人物として有力なのが、くノ一の「望月千代」です。望月千代は武田信玄の甥・望月盛時の妻とされる人物です。生没年や出身地などの詳細な箇所は不明ですが、一説には甲賀流忍者の生まれではないかと言われています。
望月千代の夫・望月盛時は武田信玄に従って川中島の戦いに出陣するも、激戦の末に討ち死にしています。夫が討ち死にして未亡人となったため、千代は武田信玄の命で巫女の総帥になったといわれています。


武士の妻や甲賀流忍者の生まれから
巫女の総帥に抜擢されたのかもしれませんね
歩き巫女としての千代


歩き巫女って一体なにをする人なの?
歩き巫女は特定の神社に所属せず、全国を渡り歩きながら祈祷を行うことで生計を立てる巫女のことをいいます。戦国時代には歩き巫女は全国各地に存在し、「マンニチ」や「マンチ」、「飯縄」(いづな)、「トリデ」、「ヤカミシュ」など、様々な呼ばれ方をしていました。
歩き巫女は一般人の往来が大きく制限されていた時代に、全国各地を渡り歩くことができるという特権を有していました。さらに全国各地に存在していたために市井にいても怪しまれません。武田信玄は歩き巫女のこのような特徴に目をつけ、武田の忍びとして採用するようになりました。


戦だけでなくこういったところでも信玄公は天才なんじゃ
甲賀流忍者出身ということで腕を買われた千代は歩き巫女の総帥(甲斐信濃二国巫女頭領)として、甲斐信濃巫女道という修練場を設立しました。これは武田家のために孤児や身寄りのない者の中から容姿や知性にすぐれたものを登用し、歩き巫女として養成しました。千代は少女たちに歩き巫女としての一連の動きや護身術、話術などの修行を積ませた後に、一人前となると諸国へ歩き巫女として送り込みました。


こうして武田信玄は周辺諸国に歩き巫女を送り込むことに成功したわけですね
1569年、千代の歩き巫女としての功績が認められて、武田信玄は千代に朱印状を与えたといいます。朱印状を受け取り、千代は巫女村を諏訪神社周辺に築いたと言われています。


朱印状とは戦国大名が発給することができる公的文章じゃな
それだけ信玄公に認められていたということじゃ
武田家滅亡後の千代は?
武田信玄や武田勝頼のもとで歩き巫女として活躍していた千代でしたが、1582年に武田家は滅亡してしまいます。千代率いる歩き巫女らは真田家に引き取られたという説があります。真田家に仕えた忍びの中に「聖女」という名前が記載されており、真田家にも女忍びがいたのではないかと推測されています。


真田十勇士など
真田家もなにかと忍びと縁が深いですね
まとめ
千代は川中島の戦いで夫・望月盛時を亡くし、若くして未亡人となってしまいました。そのため、武田信玄は甲賀流出身であったことから目にかけて歩き巫女として登用します。さらに千代は歩き巫女の総帥として孤児を集めて、護身術や諜報活動の修行させました。このようにして千代は武田の諜報活動の一役をかっていたことは間違いないと考えられます。
武田家が滅亡後は真田家に引き取られ、くノ一として過ごしたと考えられています。


戦国の女の人にも色々な暮らし方があるんですね
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