武田信玄といえば戦の天才で
風林火山が有名やな
信玄公と謙信公の川中島の戦いは有名じゃな
5回も同じ相手と戦うことは珍しいぞ
信玄の周りには有力武将がたくさんいたのにどうやって領土拡大していったんだろう?
今回は武田信玄の生涯をみていこう!!
武田信玄の年表
信玄はもう少し長生きしていたら天下をとれたというよな
信長公も信玄公の存在を恐れていられたからのー
それに家康はぼこぼこにやられたしな
そういえば信玄って出家していたんやな
信玄公の信仰心は本物で
坊主頭にして数珠を常に身につけていたというぞ
武田信玄の相関図
信玄は父親を追放して家督を継いで、息子は幽閉させるなんて!!
信玄公は周りの北条家や上杉家、今川家と争いながら勢力を拡大したんじゃな
武田信玄の誕生
武田信玄は1521年、甲斐(山梨県)に武田信虎の長男として生まれました。信玄という名前は出家したときに名乗った名前であり、本名は武田晴信といいます。
武田家は室町幕府の足利家と祖先が同じ一族なんじゃ
信玄が誕生したとき、父・信虎は合戦中であり、母が避難先の寺で信玄を産んだとされています。つまり合戦のさなかに「戦の申し子武田信玄」は生まれました。
父信虎のときに武田家は戦国大名となったよ
信虎も優秀な武将やったんやな
父の追放と息子を殺す!?
幼い頃の信玄は理屈がちな文学少年で、一方父信虎は力づくで乗り切る荒武将。そのための2人は反りが合わず、しだいに仲違いするようになってしまいます。
幼い頃の信玄公は神童といわれ
兵法書である「孫氏」や「三略」を暗記していたというぞ
関係が悪化したため、父・信虎は信玄の弟・信繁に家督を譲ろうとしました。そこで信玄は重臣を味方につけて、父を駿河(静岡県)の今川義元のもとへ追放。これをみた弟・信繁はすぐに信玄にしたがって、信玄のサポート役を徹底します。
信玄は父を追い出したけど、生活費は送っていたというで
さらに信玄が亡くなったときには、信虎は駆けつけて看取ったらしいし
普通、家督争いになれば合戦などが起こるんじゃが
無血で家督を相続をした信玄公はすばらしいぞ
織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで打ち破ったのち、信玄が今川家の駿河へ侵攻を画策。これをみた、今川義元の娘を正室に迎えていた息子・義信が強く反発。信玄はこのことを許さず、義信を幽閉し、その後義信は自害してしまいました。
かつて信玄が父を追放したように
実力のある息子から同じのように追放されるのを恐れたのかもなー
武田信玄の強さ
信玄は占領した領地の武将をどんどん家臣としました。一般的に敵方武将が寝返って家来となっても、なかなか出世することはできません。ところが信玄はもとは敵であっても出世を促し、中には一国一城の武将までのぼりつめた武将もいました。
また領国でトラブルが起きたときは会議を開いて多くの人から意見を聞き、判断を下したといいます。
信玄が出世を促し、意見を取り入れるから
家臣たちのモチベーションは高かったというぞ
さらに信玄は城下町に商人や職人を集住させ経済を活性化したり、交通を整備したり、金山の開発をしたりと、インフラ整備を行い国力増強をはかりました。
有力武将は内政に力をいれていることが多いなー
合戦をするには国力が大事なんやなー
喧嘩両成敗を分国法で定めたのは信玄公が最初といわれておるぞ
永遠のライバル信玄と謙信!!
父を追い出して家督を継いだ信玄は隣国の信濃(長野県)に侵攻。信濃には有力武将がたくさんいるために、正攻法で攻め込んでもなかなかうまくいきません。そこで城攻めの際に、敵将兵の首を城外に並べて士気を削ぐという作戦を実行しました。
これにより敵軍は恐怖をおぼえて降伏し、信玄の家来となります。これぞ、信玄が大事にした「戦わずして勝つ戦法」です。
信玄公も勝つためには残虐な行動を起こすんじゃ
残忍非道なのは信長公だけじゃないぞ
信玄は勝てると思った合戦だけ戦ったというよ
「戦わずに勝つ戦法」で信玄は次々と領土を拡大していきました。ところが北信濃の村上義清と戦ったとき、信玄は生涯ではじめて敗北を喫します。
それでも信玄は軍を立て直して再び義清に侵攻し、勝利します。敗れた義清は越後(新潟県)の上杉謙信のもとに助けを求めました。謙信は義清の代わりに信玄と戦うことに決め、信玄と謙信の長い長い戦いが幕を開けます。
謙信公は弱いものために戦った武将じゃからなー
謙信からの猛烈な侵攻を防ぐために、信玄は駿河(静岡県)の今川義元と相模(神奈川県)の北条氏康と甲相駿三国同盟を結んで対抗。
ところが、信玄と謙信は川中島で実に5回も合戦を繰り広げましたが、結局決着はつかずひきわけに終わりました。
第4次川中島の戦いが一番壮絶で両軍の死者数が最も多かったみたい