武田家に仕えた高坂昌信(弾正)は武田信玄と勝頼に仕えた武田四天王の一人にも数えられる重臣です。撤退戦では殿(最後尾)を務めて「逃げ弾正」と言われました。
豊臣秀吉
撤退戦で殿を任せられるとは
信玄公から相当信頼されておったんじゃろな
昌信は武田家で異常な程のスピード出世を果たしました。というのも昌信はかなりのイケメンで、主君である信玄と男色関係(衆道)にあったからだといわれています。
ひろ
戦国時代では、男同士の性交渉は普通やったみたいやで
信長や家康も男色の嗜みがあったというで
豊臣秀吉
わしは百姓の生まれじゃから
そんな趣味はないんじゃ
ところが信玄は弥七郎という別の美少年に浮気をしていました。これに怒った昌信は、家臣であるにもかかわらず信玄のもとに出向くことを拒否。
そこで信玄は手紙で必死に昌信に弁明しました。その内容が次のものです。
一、たしかに弥七郎には何回も言い寄ったけれど、「お腹痛いから」と断られたのでなにもありません。絶対に嘘ではありません。 一、弥七郎を夜伽に寝かしつけてたことなどありません。これまでもありません。ましてや、夜だけではなく昼もさせたことはありません。もちろん今夜も決してありません。 一、このことをあなたに分かってもらいたくて、色々と手を尽くしているのに、かえってそれで疑いをかけられて本当に困っています。 もしこの手紙に書いてあることが嘘だとしたら、神の罰でもなんでも受けるつもりです。 本来なら正式な誓いの紙に書くべきですが、役人たちの目もありますから、明日もう一度、正式な誓いの紙に書くつもりです。 7月5日 晴信(武田信玄) 春日源助(高坂昌信 )殿
手紙から信玄の必死の弁明が見られます。この手紙が送られた後も昌信は信玄に仕え続けたため、昌信は信玄のことを許したのではないでしょうか?
ひろ
武田信玄は武田騎馬隊を率いた名将のイメージだったけど
こうゆう手紙を送るところをみると普通の人間やったんやなー