どうする家康を見逃した方はこちら

謀反によって下剋上を成し遂げるものの、、、

戦国武将
ひろ
ひろ

陶晴賢すえはるかたって主君大内義隆を裏切った張本人やな

下剋上を成し遂げたけどすぐに毛利元就に敗れてしまったよなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

主君と反りがあわずに謀反を起こしたんじゃ

元就殿は戦の天才じゃからなー、敗れてしもうたわ

ひろ
ひろ

主君の大内義隆と仲が良くなかったのかー

それでは陶晴賢の生涯をみていこう!!

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陶晴賢の誕生

陶晴賢すえはるかたは1521年に大内氏の重臣興房おきふさの子として生まれました。晴賢は初め隆房と名乗っていましたが、大寧寺の変後晴賢と改名しています。父興房が病に倒れると19歳の若さで家督を継ぎました。

ひろ
ひろ

大内義隆の重臣として働きはじめたんやなー

それにしても19歳で家督を継ぐのは大変やろな

大内家ナンバー2!!

晴賢は大内家の軍事権を任さられる武断派武将として大内義隆おおうちよしたかを支えました。これは、義隆はあまり戦に興味がなく文化芸術などを愛したためです。また、晴賢が美少年だったことから義隆から寵愛を受けます。これにはフランシスコザビエルが馬鹿にしたほどの男色家でもありました。

そんな中、大内家傘下の毛利元就の居城吉田郡山城尼子晴久によって包囲されました。晴賢は義隆の命を受け元就を助け、尼子軍に勝利しました。

この勝利に勢いづいた晴賢は尼子家の居城月山富田城がっさん とだ じょうを攻めるように義隆に進言します。しかし元就が今は戦う時ではないと、両者の主張は対立します。

結局義隆は晴賢の案を採用して月山富田城を攻め込みました。しかし晴久は籠城して長期戦に持ち込まんだために大内軍の士気は下がってしまい、撤退を余儀されます。この撤退途中に義隆の養子大内晴持はるもちが船の転覆によって亡くなってしまいました。義隆はこのことにかなりがっかりしてしまい、いっそう戦いを嫌い文芸に没頭しました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

この月山富田城の戦いが2人の仲を悪くする原因なんじゃ

いつ関係が悪くなるかわからんから注意する必要があるのー

主君との反りがあわず裏切る!?

月山富田城の撤退により義隆と晴賢の関係は冷え切っていました。また義隆が公家衆と遊ぶようになってしまい、武断派の晴賢としては納得できません。晴賢と義隆の対立が目立つようになります。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

戦国武将が公家と遊ぶのは以外に思うかもしれんがよくあることじゃ

信長公も本能寺の変の前には公家や僧と遊んでいたんじゃ

義隆殿は公家と遊びすぎたの

そんな時に事件はおきました。晴賢がついに謀反を起こしました。大内家の軍事権をすべて晴賢が担っていたので、義隆にはひとたまりもありませんでした。義隆はそのまま自害に追い込まれ、この事件後晴賢は大内家の実権を握り、大友宗麟おおともそうりんの弟を大内家の当主にして大内家を操りました。

ひろ
ひろ

この謀反を大寧寺の変っていうで

それから4年後、晴賢はこれまで従っていた毛利元就と仲違いし、厳島で戦をすることになりました。晴賢は3万の兵力を有していたのに対し、元就はたった4千でした。しかし元就のたくみな謀により敗れてしまい、晴賢は自害しました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

この厳島の戦い以降毛利元就殿の快進撃が始まるぞ

まとめ

陶晴賢もまた戦後時代の下剋上を表す人物です。戦後時代ではいつ家臣が主君を裏切り、一発逆転できるかが醍醐味です。晴賢もまた天下を夢見て、一か八かの裏切りに出たと思います。

ひろ
ひろ

戦国時代では下剋上が起きるから

主君と家臣は信頼関係を築いていないと天下はねらえないなー