
毛利元就といえば
中国地方の覇者で、謀略によって勢力を拡大した武将!!

元就殿の生まれた毛利家は小さな家で、幼い頃に両親と兄を亡くしているんじゃ
じゃから、頭を使って敵を欺いていくことでしか勢力を拡大できなかったんじゃ

元就も下剋上を成し遂げた武将なんだな
それでは毛利元就の生涯をみていこう!!
毛利元就の年表




元就が勢力を拡大できたのは
長生きしたのも1つの要因だね


天下をとるには長生きが必要じゃ
信長公や家康は長生きしようと健康に気をつかっておった


毛利元就の相関図




元就は一族を基盤に毛利家を強くしたんだなー


元就殿は輝元の優柔不断な態度を嫌っておった


毛利元就の誕生
毛利元就は1497年、安芸(広島県)の国人領主・毛利弘元の次男として生まれました。元就が生まれた頃の毛利家はそれらに囲まれた小さな領主に過ぎず、中国地方は巨大な勢力である大内家や尼子家が牛耳っていました。


当時の中国地方の小領主たちは
大内家につくか尼子家のどちらにつくかで迷っていたんじゃ
大内家と尼子家の二大勢力に翻弄されたため、父・弘元は隠居。家督を幼い毛利興元に譲ります。しかし、元就が4歳のときに母が亡くなり、10歳のときに父が亡くなってしまいました。さらに、家臣が幼くして両親を失った元就を城から追放。元就は孤児となって、「乞食若殿」といわれるほど貧しい生活を送ることになってしまいます。


父は酒毒で亡くなったといわれているよ
元就の状況を不憫に思った、父の継室である杉大方は元就を引き取り養育し、元就を元服までさせます。ところが、酒毒で兄・興元が亡くなったため、その子・幸松丸が後を継ぎ、元就は後見人となりました。


元就殿は自分を育ててくれた
杉大方には大変感謝していたそうじゃ
毛利家の当主がころころ変わることを好機だと感じた武田信繁は、毛利家と同盟を結んでいる吉川家の居城に侵攻。元就は幸松丸に変わって出陣しました。元就は初陣にも関わらず、猛将・熊谷元直を討ち取る大勝利を収めます。元就は毛利家のために尽くし、幸松丸が他界したため27歳にして家督を相続しました。


この戦いは西の桶狭間といわれるほど
毛利家の明暗を分けた戦いだったよ


(毛利博物館蔵)
毛利両川!!
元就は家督継承を巡って尼子経久と対立したり、十分な恩賞を貰えないことに不満を抱いていたため、大内義隆に仕えるようになります。そして、大内家では軍事を担当。尼子家が治めていた石見(島根県)や隣国の備後(岡山県)に攻め入り勝利をおさめています。これにより、元就は安芸、備後、石見の3か国を支配する領主となりました。


とはいえ、まだ大内家の傘下だったよ
毛利家の勢力拡大を快く思わなかった尼子晴久は3万もの兵を率いて、毛利家の居城・郡山城に進軍。これを大内家の援軍に頼りながらも勝利し、さらに安芸武田家を滅ぼしています。


元就は着々と力をつけていっているな
元就は大内家からの独立を目指していましたが、一介の領主に過ぎない毛利家が独立すれば、大内家や尼子家に狙われることは目に見えています。そこで、元就は妻の実家である吉川家に次男・元春を送り、三男を水軍をもつ小早川家へ養子に出しました。


この態勢は毛利両川といわれるんじゃ
新たな毛利家の形だな


元就は吉川家や小早川家を乗っとたんだな


(米山寺蔵)

