一代で中国の覇者にのし上がった戦国最高の知将毛利元就!!

戦国武将
ひろ
ひろ

毛利元就はしっているよ

中国地方の覇者で、謀略によって勢力を拡大した武将でしょ

有名な戦国武将だけどなんでこれほどまでに有名な武将なんだろう?

豊臣秀吉
豊臣秀吉

元就殿の生まれた毛利家は小さな家じゃったから

頭を使って敵を欺いていくことで勢力を広げたから有名なんじゃ

ひろ
ひろ

元就も下剋上を成し遂げた武将なんだね

それでは毛利元就の生涯をみていこう!!

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毛利元就の誕生

毛利元就もうり もとなりは1497年、安芸国(広島県)の国人領主毛利弘元の子どもとして生まれます。

元就が生まれた頃の毛利家は困窮しており、日々の食糧もなく元就は「乞食若殿」と呼ばれたほどでした。また元就は長男ではありませんでした、そのため1523年、内輪揉めのすえになんとか毛利家の家督を継ぐことができました。

ひろ
ひろ

日々の食料に困るほど困窮していたなんて、毛利家はたいへんだったんだなー

尼子氏、大内氏に挟まれる毛利家

元就が若い頃の中国地方では、出雲(島根県)の尼子家と周防(山口県)の大内家が覇権を争っていました。そのため安芸、備後(広島県)の諸武将たちはどちらに従うかで迷っていました。

このとき毛利家はというと、大内家についたり尼子氏についたりしていました。

そして元就が尼子家を離れて大内義隆の傘下に入ることになると、かつての主君尼子晴久が元就を攻めますが、義隆の援軍によってこれを撃退しました。この戦いを吉田郡山城の戦いと言います。この尼子家への勝利に勢いづいた大内家は尼子家の居城月山富田城がっさん とだじょうを攻め込みますが、失敗してしまい大内家は勢いをなくしてしまいました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

元就殿は月山富田城へ攻め込むのを反対していたんだがな

やはり元就殿は見る目がちがうなー

大内家は月山富田城攻めの失敗から義隆と家臣の陶晴賢すえはるかたの仲が悪くなっていました。結局晴賢は謀反を起こし、元就はこれに同調して義隆を討ちました。その後元就は晴賢に従うようになりました。

ひろ
ひろ

このように元就は主君をめまぐるしく変えているね

小国が生き残るには裏切りを繰り返すしかないんだなー

悲願の中国地方平定!!

元就は陶晴賢に仕えていましたがいつしか仲違いするようになり、ついには合戦に発展しました。これを厳島いつくしまの戦いといいます。晴賢軍は3万に対し、元就軍はたった4千だったと言われています。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

この戦いで元就殿の頭脳がひかり

元就殿は一躍天下にその名を轟かすことになったんじゃ

元就は晴賢の家臣江良房栄が謀反を企てているといった偽りの情報を陶軍に流しました。これに惑わされた晴賢は房栄を殺害しました。

また、晴賢を誘き寄せるために厳島にわずかな兵をおきました。それに大軍の晴賢は見事に誘き寄せられてしまい、狭い厳島で身動きがとりずらくなってしまいます。そこに元就は村上水軍の援助を得て嵐の夜に奇襲攻撃を仕掛けると、パニックに陥った晴賢は自害しました。

この厳島の戦いで元就は躍進すると次に目をつけたのが尼子晴久でした。尼子晴久が病死すると、尼子家の月山富田城兵糧攻めして尼子家を降伏させました。

尼子家、大内家、陶家を破った元就は中国地方を平定したのでした。

ひろ
ひろ

元就は乞食若殿であったときからかなり勢力をのばしたんだね

これこそが元就が有名な理由だ

まとめ

元就といえば一族の結束を大事にした人物であり、有名なのが「三矢の教え」です。この3本の教えを守った吉川元春小早川隆景は毛利両川りょうせんとして毛利家を助けました。

この教えこそが後の幕末における長州藩の快進撃の礎になったのでしょう。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

元就殿が家督相続のときに揉めたから子どもたちには結束してほしいと強く願ったんじゃろな

コメント

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