高山右近はキリスト教に生涯を捧げた武将やな
右近はキリスト教を信仰するあまりフィリピンに追放されてしまったんじゃ
フィリピンにまで!!
信心深いキリシタンやったんやなー
それでは高山右近の生涯をみていこう!
高山右近の年表
高山右近にあまり合戦のイメージがなかったけど
山崎の戦いなどに参戦しているんやなー
右近は山崎の戦いでは先鋒をつとめたんじゃよ
高山右近の相関図
右近は友人の武将にキリスト教を布教していったんやなー
黒田官兵衛も右近の影響を受けて入信しておる
高山右近の誕生
高山右近は1552年、摂津(大阪府)に高山友照の子として生まれました。高山家は天皇家の血をひく一族であり、代々摂津の地頭を務めていました。父友照のときに松永久秀に仕えた後、摂津の守護和田惟政に仕えています。
地頭は朝廷や貴族の土地を管理する役職のことでかなり重要な位やで
12歳のとき、右近は父の影響によりキリスト教の洗礼を受け、洗礼名ドンジュストを授かりました。
右近はかなり早い段階で入信しておったんじゃ
合戦で活躍!!
高山家の主君和田惟政が荒木村重に合戦で討たれて息子の和田惟長が家督を継ぐと、高山家を危険視し暗殺しようと計画していました。
それを知った父友照は村重に相談し、
「村重が殺される前に殺すべきだ、兵の援助を惜しまない」と明言。これを聞いた右近たちは和田惟長を返り討ちにします。
ところが右近は首に深い傷を負ってしまい、2ヶ月以上生死をさまよった後に回復しました。この体験により右近はキリスト教へ深く信仰していくことになります。
奇跡的な体験をすると神を信じてしまうよな
右近は父が隠居したことで高槻城主(大阪府)となり、荒木村重に従うようになります。ところが、村重が主君の織田信長に謀反を起こしました。
信長は村重の家臣である右近にも謀反の疑いをかけます。
そこで右近は宣教師から「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ。」と助言を受けます。
右近は信頼していた神父(宣教師)から
村重から見捨てて、信長に降伏したほうがいいとアドバイスしたんやなー
しかし、父友照は「信長に従うくらいなら切腹する」といいだします。
そこで右近は領地も家族も捨てて信長の元に頭をまるめていったために、信長は右近の潔さに感銘をうけ右近を許して、家臣としました。
右近は本当に漢気のある武将なんじゃよ
村重は自身の家族を見捨てたというのに右近はえらいやつじゃの
バテレンの大旦那!?
本能寺の変が起こり安土城は焼失。そのため安土城下にあったキリスト教会は、高槻に移されることになり近畿地方のキリスト教中心地となりました。
右近は友人の蒲生氏郷や小西行長にもキリスト教を勧めて、キリシタン大名を増やしていったんだよ
ところが豊臣秀吉はキリスト教宣教師に国外追放の命を下し、秀吉は右近にキリスト教を捨てるように命令しました。ところが右近はキリスト教を信仰し続けたので、追放されてしまいます。
追放された右近はキリシタン大名の小西行長をたよったのちに、前田利家のもとに預けられました。謹慎という名目で利家のもとにいましたが、関ヶ原の戦いで武功をあげたり、高岡城を設計したりと武将としての才能も発揮しました。
右近は利家にひきとられると
金沢城下でクリスマスパーティーを行ったそうじゃ
それに右近は茶の湯を嗜み、千利休の7人の弟子の1人に数えられるほどの腕前であったというぞ
ところが江戸時代になるとキリスト教への弾圧がさらに厳しくなり右近は国外追放されてしまいます。右近はフィリピンに追放されるも、フィリピンではすでに右近の名が知れ渡っていたため、国賓として歓迎されたといいます。
右近はフィリピンで熱病になってしまって、わずか40日で亡くなってしまったんだ
まとめ
高山右近は他のキリシタン大名より際立ってキリスト教を信仰していました。その信仰をやめられずフィリピンに追放となってしまった武将でした。
右近は才能に優れた武将じゃったから
わしも取り立てていたんじゃがなー