人気武将の真田幸村と伊達政宗は大坂の陣で激闘を繰り広げたことが有名だけど
ほかに何かあったのかなー
幸村は大坂の陣で果てたが
その子は生き延びたんじゃ
それの子が伊達政宗と関係あり?
それでは真田幸村と伊達政宗の関係を見ていこう!
真田幸村とは
真田幸村は戦の天才・真田昌幸の次男。若い頃は父とともに居城の上田城を徳川家康から守り抜いており、関ヶ原の前哨戦では徳川秀忠の足止めに成功しています。大坂の陣では、徳川家康をあと一歩のところまで追い詰める猛攻をみせ、「日本一の兵」と称されました。
幸村は大坂の陣までは無名だったけど
この戦いで一気に有名人になったよ
真田親子はわしを翻弄し続けたんじゃ
伊達政宗とは
伊達政宗は東北地方の大名。政宗が当主となると、伊達家は破竹の勢いで勢力を拡大し、「奥州筆頭」といわれるほどの武将となりました。ところが、天下人・豊臣秀吉の高い壁に阻まれて、天下統一の夢は儚く消えてしまいます。太平の世となると、家臣をローマに派遣するなど、新しいものを求める革新的な大名でした。
政宗は大坂の陣が終わるまで
天下取りの野望を捨てていなかったというよ
大坂の陣にて
江戸幕府を開いた徳川家康は最後の憂いを拭うため、豊臣秀頼に宣戦布告し、大坂の陣が勃発しました。関ヶ原の戦いでの責任を取らされ浪人となっていた真田幸村は豊臣方に味方。一方、伊達政宗は関ヶ原の戦いの時と同じで徳川方につきます。
1615年5月、大坂城の堀を埋められた真田幸村は夜戦に打ってでて、伊達政宗と激突を繰り広げました。
伊達政宗と真田幸村は同い年のライバル!!
政宗、水野勝成や松平忠輝ら3.4万の兵を幸村は後藤又兵衛らともに1.2万の兵で迎え撃ちました。ところが、兵力の差や豊臣軍が寄せ集めの兵であったため、幸村たちは劣勢となり、後藤又兵衛が討ち死にしてしまいます。真田軍は撤退しますが、政宗は「弾切れだ」といって追撃しませんでした。
このときに幸村は
「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」と嘲笑したとか
(関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人としていない)
ところが、幸村は死の覚悟を決めていましたが、愛する妻子の運命が頭によぎりました。
男児は処刑されるとしても
なんとしても女児は救いたい
そこで幸村は後藤又兵衛を討ち取り、幸村と面しても一歩も引かなかった片倉重綱に目をつけました。
幸村は敵方に自分の娘を預けようとしたんじゃな
何という豪胆なやつじゃ
伊達家のもとへ
幸村は大坂城にいる妻子に手紙を託し、「伊達家の庇護のもと生きながらえて欲しい」と願いました。政宗は幸村の願い通りに子どもたちを徳川家から匿います。幸村の娘・阿梅は片倉重綱の後室となっており、ほかの娘たちも武家に嫁ぎました。
阿梅、阿菖蒲、おかねらが伊達家に匿われたよ
また、幸村の次男・大八は片倉家に仕えて片倉守信と名乗ります。幸村の次男が生存していることが徳川に知られたら、片倉家はおろか、伊達家もおしまいです。しかし、政宗や重綱は幸村の頼みを聞き入れて、しっかりと匿ったのでした。
大八は大坂の陣から35年後に「真田守信」と称したら
「逆賊の子ではないか」と伊達家に詰問状がきたみたい
伊達家は匿ってその場を凌いだけど、大八は早々に「片倉守信」に改名したみたい
その子のときに真田を名乗ることを許されており
現在も幸村の子孫は存続しておるぞ