真田信之は真田昌幸の長男で真田幸村の兄やな
あんまり目立たないから詳細はわからないなー
信之は父や弟のせいで功績が目立たんが
勇猛な武将だったんじゃ
それでは真田信之の生涯をみていこう!
真田信之の年表
真田信之は93歳まで生きたけど
中年の時から病気がちだったみたい
大坂の陣にも行けず、
家康のお見舞いにも行けなかったんじゃ
真田信之の相関図
武田家臣では「信」、
それより下の位だと「昌」が名前につくんだよな
昌幸は三男だから「昌」がついているが、
真田家の家督を継ぐことになった信之には「信」がついているんじゃな
真田信之の誕生
真田信之は1566年、甲斐(山梨県)に真田昌幸の長男として生まれました。父・昌幸は真田家の当主として武田勝頼に仕えていました。
相次ぐ兄弟の死から、三男でありながらも当主となった昌幸は家督相続の正当性を示すため、信之に従兄妹の清音院殿を正室に迎えさせました。さらに勝頼の長男・信勝と一緒に元服しています。
信之の幼名は源三郎で、弟幸村の幼名は源二郎だよ、
兄弟の順が逆なのは長男が早死にしないようにとの願いが込められているよ
勇猛な真田家当主!
織田信長によって主君・武田家が滅亡すると、真田家は織田家の重臣・滝川一益に仕えます。とはいえすぐに信長が本能寺の変で討たれたため、仕えていたのはほんの3ヶ月間だけでした。
滝川一益は旧武田領を治めていた武将やな
本能寺の変に便乗して、全国各地で反乱が勃発。徳川家康、上杉景勝、北条氏政は勢力拡大をはかりました。真田家は生き残りのため上杉→北条→徳川と主君を転々とします。
徳川家の家臣となっていた真田家でしたが、領土問題により徳川家康と対立。話し合いでは折り合いがつかず、合戦へと発展してしまいます。徳川軍は8000もの兵を率いて、真田の城・上田城へ侵攻。真田軍は徳川方の4分の1の兵で迎えうちますが、父・昌幸の天才的な軍略と勇猛な信之の活躍により徳川軍を撃退しています。
このとき信之はまだ20歳だったんじゃ
また普段は温厚な性格だったんじゃが、合戦になると勇猛な性格になるようじゃな
天下人・豊臣秀吉により、真田家は徳川家と和睦を結びます。そして、信之は徳川家の重臣・本多忠勝の娘・小松姫と結婚。信之は清音院殿を正室としていましたが、今回の政略結婚で小松姫が正室となりました。
信之と小松姫は仲がよくて
2男2女に恵まれているよ
犬伏の別れ!!
豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康が天下取りのため動き始めました。豊臣と真田の取次をしていた石田三成と親交のあった昌幸と幸村は西軍に従い、信之は妻の実家の徳川方につきます。
幸村は石田三成と親交が深かった大谷吉継の娘を正室に迎えておったんじゃよ
信之は徳川秀忠に従って、父と弟が守る上田城へ侵攻。なるべく合戦をしたくなかった信之は、幸村と交渉して支城を明け渡せさせ、城の守備を担当しました。上田城では昌幸の巧みな戦術により、徳川秀忠は翻弄されてしまいます。
関ヶ原の戦いの決着がつくと、西軍に属していた昌幸と幸村には処分が命じられます。信之は父と弟の助命を嘆願し、命だけは助けてもらいました。そして2人は紀伊(和歌山県)の九度山に配流されます。
信之は徳川への忠義を示すため
真田の通り字である「幸」から「之」に変えているよ
関ヶ原の戦いの後は荒廃した領内の立て直しをはかり、インフラ整備や減税などの政策を行いました。また倹約を心がけて、父と弟のために生活費の仕送りしています。
信之は何度も何度も昌幸と幸村を解放するように幕府に訴えかけたそうじゃ
大坂の陣で真田幸村が大活躍した際には、幕府から謀反の疑いをかけられてしまいます。信之は上田城から脱して幸村と共に戦ったものを処刑するなど、屹然した態度で幕府に立ち向かったといいます。
その後は献身的に徳川家に尽くし、4代目将軍・徳川家綱の代まで仕え続けました。
信之はのんびり暮らしたかったけど、
幕府に信頼されていたからなかなか隠居できなかったみたい
まとめ
真田信之は父や弟に挟まれて陰こそ薄いですが、真田家を守り抜いた優秀な武将でした。晩年は、徳川家を何度も苦しめた真田親子の影響で、信之も徳川幕府に見張られることになってしまいます。
真田信之の辞世の句は「何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思いざりけり」
戦国の記憶が薄れた1658年まで生きたもんなー