本多忠勝は僕が一番好きな戦国武将や!!
生涯徳川家康に仕えた武将で戦国最強といわれたなー
わしは「東の天下無双の本多忠勝」と称賛したぞ
忠勝は秀吉さんをはじめ、武田信玄、織田信長にもその実力が認めらたもんなー
それでは戦国最強本多忠勝の生涯をみてみよう!!
本多忠勝の年表
忠勝は桶狭間の戦いで初陣を飾ってから57回合戦に参加したけど、
一度たりとも傷を負わなかったといわれているで
忠勝とともに戦った武将たちは「鉄の盾を背負ったように頼もしい」と称賛したそうじゃ
本多忠勝の相関図
家康の因縁の敵真田家とつながりがあったんやなー
真田昌幸は東軍と西軍のどちらが勝っても
真田の血筋が残るように仕組んだからのー
本多忠勝の誕生
本多忠勝は1548年、三河(愛知県)に本多忠高の長男として生まれました。父忠高は松平家(徳川家)に仕えていた武将でしたが、忠勝が二歳のときに亡くなってしまいます。その後母と叔父のもとで育ち、家康に仕えて側近となります。
忠勝は徳川家の譜代中の譜代大名なんやなー
忠勝は13歳にしてあの有名な桶狭間の戦いで初陣を飾ります。とはいえさすがの忠勝も初陣では活躍できませんでした。ところがその二年後の合戦では首級をあげたといいます。
戦国最強本多忠勝の最初の一歩じゃなー
天下人に認められた実力
忠勝は桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いにいたるまで、家康に従ってさまざまな合戦に出陣しました。そこであげた忠勝の数々の勇士を紹介していきます。
家康が3年間も苦しめられた三河一向一揆では、本多家の大半が一揆側に味方しましたが、忠勝は浄土真宗から浄土宗に変えてまで家康に味方します。一向一揆での忠勝の活躍はすばらしく、家康は「その勇ましさはずば抜けている」と評価。
一向一揆は浄土真宗が起こした一揆やから、
忠勝は浄土宗に改宗したんかー
織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍による姉川の戦いでは、朝倉軍が徳川本隊まで攻め込んできて、徳川軍は敗戦しそうになりました。ところが忠勝は単騎で朝倉軍に突っ込むと、朝倉軍の陣形を崩して勝利に貢献します。これにはあの織田信長も「華やかを兼ね備えた勇士」と讃えました。
姉川の戦いは、織田徳川軍は数でこそ有利じゃったが、
浅井朝倉の猛攻におされておったんじゃー
三方ヶ原の戦いは、武田信玄によって家康が生涯もっとも追い詰められた合戦でした。そのため家康は敗走を余儀なくされますが、忠勝は敗走する徳川軍の最後尾を務めて、追撃してくる武田軍を追い払いました。これには武田信玄も思わず、「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」と称賛しました。
「唐の頭」は中国から伝来したヤクの尾を束ねた貴重な飾り物のことじゃ
家康がびっくりしすぎて、脱糞したという合戦やな
小牧長久手の戦いでは、豊臣秀吉の8万の大軍に対してわずか500騎で乗り込むと、馬に川の水を飲ませて余裕さをアピールしたといいます。これには秀吉も忠勝の豪胆さを感じて、攻撃をやめさせました。
わしは忠勝の武勇を知っておったから、攻撃するのをやめさせたんじゃ
関ヶ原の戦いでは、53歳と高齢にもかかわらずわずかの手勢で90以上の首級をあげました。
こんなに危険な役割を担当しているのに、傷一つ負わなかったなんて強すぎ!!
まとめ
本多忠勝は戦国最強と謳われ、たくさんの危機から主君徳川家康を救った武将でした。忠勝は戦国の乱世でこそ実力を発揮することができました。
そのため、関ヶ原の戦いの後は家康から危険がられたのか伊勢桑名(三重県)と江戸から遠いところに移封されています。
忠勝が得た所領はたったの10万石じゃもんなー
ある日、持ち物に名前を彫っていると過って怪我をしてしまい「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」といったんだ
そうすると本当にその言葉通りその数日後に亡くなってしまった
実は僕の頭に乗っている兜は忠勝の兜なんだ!