支倉常長は伊達政宗の家臣としてローマに出向いた武将だな
8年もの大航海を果たしたんじゃ
常長の航海の裏には主君・政宗の思惑があったみたい
それでは支倉常長の生涯をみていこう!
支倉常長の年表
戦国時代に日本にやってきた宣教師たちの表向きの狙いはキリスト教の布教だけど
裏では日本が「黄金の国」といわれていたことを確かめるためだったみたい
しかし、日本には大規模な金山はなかったんじゃ
支倉常長の誕生
支倉常長は1571年、山口常成の子として誕生しました。主君・伊達政宗の4つ歳下です。常長は伯父・支倉時正の養子となり、陸奥(宮城県)の支倉村に住んでいました。
その後、伯父に実子ができたため、常長は600石もらって独立。伊達領内で起きた葛西大崎一揆や朝鮮の役に出陣しています。
常長の身分は高くなかったけど
朝鮮出兵での戦いぶりや統率力は評価されていたよ
政宗の野望!?
1609年、スペインの船がメキシコへ向かう途中に房総半島(千葉県)に座礁。彼らは地元の漁師によって救助され、幕府から船をもらっています。これ以来、日本とスペインとの交流が始まりました。
この頃、スペインは大帝国を築いておって
日本に近いフィリピンまで植民地にしていたんじゃ
政宗は江戸に滞在中にビスカイノとソテロというスペイン人と出会いました。好奇心の強い政宗は彼らと会談。そして、政宗にはこんな野望が生まれました。南蛮貿易を行なって仙台を富ませよう。その上、スペインの強力な艦隊を味方につけて幕府を倒そう。などと考えていたといいます。
もちろん、スペイン側にも利点があって
日本をフィリピンやメキシコとの間の中継地にしたかったみたい
政宗は南蛮貿易を実現するべく、ヨーロッパへ使節団を送り込もうとします。政宗は貿易のためだと、幕府に許可をとって、造船や人員集めを行いました。とはいえ、通商交渉以上の野望があるのではないかと疑われては困るため、藩の重臣をスペインへ送るわけにはいきません。そこで、幕府からの名の知られていない支倉常長を派遣することが決定されます。
この時、常長の父は罪を犯して切腹させられていたから
常長にお家の名誉を取り戻すためにも送り込ませたといわれているよ
世界的大旅行!!
1612年、常長は政宗の命を受けて出航。船の中には、常長をはじめとする仙台藩士やスペインとの交易を望む商人、そして使節団の動きを監視する幕府の役人が乗り込みました。乗組員に幕府の人間がいることを警戒した政宗は、ローマ法王宛への手紙の肝心な部分は記載せず、常長にのみ伝えていました。
国王や法王と謁見するときは常長と通訳しかいないから
機密情報は常長に託されたんだろうな
1回目の出航は嵐にのまれて失敗に終わってしまい、2回目は1613年に出航。そして、1615年、スペインの国王と面会した後、ローマ教皇とも面会を果たしました。常長はローマ市議会から市民権と貴族の位を賜っています。ところが、肝心の通商交渉は日本国内でキリスト教の弾圧が始まっていたため、失敗しました。
常長が出航したすぐ後くらいから
キリスト教は禁止されたんじゃ
帰国した常長は禁教令が出されていたため、すぐにキリスト教を棄教し、その2年後に亡くなってしまいました。常長の跡を継いだ支倉常頼はキリシタンであったことから支倉家は断絶してしまいますが、その子・常信の代には許されて復活しています。
江戸幕府の禁教は徹底しているからなー
天正遣欧使節団としてローマに出向いた中浦ジュリアンは穴釣りの刑で亡くなったよ
まとめ
支倉常長は無名な武将にも関わらず、伊達政宗の命を受けてスペインやローマに出向いた武将でした。ところが、スペインとの通商交渉は失敗に終わり、帰国後信仰していたキリスト教を棄教することとなってしまいます。
常長の渡航はすぐに忘れ去られて
キリスト教が解禁された明治時代になってから再注目されたよ