石川数正は徳川家康に古くから仕えていた武将だけど
なんの前触れもなく徳川家を出ていった武将やな
家康のもとを離れて
秀吉のもとへ出向いたんじゃなー
徳川家にとったら機密情報が豊臣家にバレてしまう一大事!
どうして石川数正は出奔したのか見ていこう!
石川数正の年表
三方ヶ原の戦いで家康は武田信玄と衝突するけど、
数正は討ち取られても恥ずかしくないように
弓懸(弓を引くときの手袋)の正式な結び方を習ったみたいやな
このことを「武士のたしなみ、誰でもかくあるべきなり」と信玄公は称賛したんじゃな
石川数正の相関図
数正は信康と関係が深かったんやなー
なのに、切腹事件のときに動きを見せなかったのはどうしてだろう
2人の死後は、首塚を建立して霊を慰めたようじゃ
石川数正の誕生
石川数正は1533年、三河(愛知県)に石川康正の長男として誕生しました。石川家は安祥七譜代といわれる徳川家古参大名の一つに数えらる名門家でした。
幼い竹千代(徳川家康)が今川家の人質となると、数正はこれに護衛として同行しています。
家康の人質先となった駿府(静岡県)は京都の文化を取り入れた華やかな町並みだったよ
今川義元が公家と関係が深かったからだろうなー
家康の懐刀!!
桶狭間の戦いにより今川義元が亡くなると、主君・家康は今川家からの独立を目指します。徳川家と織田家は代々領土争いを理由に揉めていましたが、数正が織田信長に交渉を行なって清洲同盟を成立させます。さらに今川家の人質となっていた家康の正室・築山殿と長男・信康を救出しています。
家康は数正に重役をまかせるなど、かなり数正を信頼していたんじゃ
信長と同盟を結んだ家康は三河統一を目指しましたが、大規模な一向一揆が勃発してしまいます。徳川家の家臣も一揆衆に味方するなど、家康は窮地に陥りました。数正は浄土宗に改宗して、家康に尽くし一揆を鎮圧しました。そして、西三河衆を束ねる旗頭となります。
石川家は代々浄土真宗で、父・康正は一揆側についてるよ
東三河衆を束ねたのは、酒井忠次じゃな
主君・家康と信康の関係が悪化し、信康と築山殿に謀反の疑いをかけられ2人は切腹させられました。そして数正は岡崎城代となりましたが、徳川家の本拠地が浜松城へ変更になったため、岡崎衆と浜松衆の間で待遇の差が生まれるようになってしまいます。家康直属の家臣である浜松衆は合戦で武功をあげるチャンスが多いものの、岡崎衆は物資の輸入などの地味な仕事ばかりだったからです。
三河一向一揆以降、徳川家の団結力は強かったけど
家康の領土拡大につれて家臣の不満がたまっていったんやなー
突如出奔!?
本能寺の変で織田信長が亡くなり豊臣秀吉が台頭すると、数正は秀吉との交渉を担当しました。賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利をおさめると、家康はすかさず数正を派遣して戦勝を祝わせています。
このとき、数正は秀吉から軽めのヘッドハンティングを受けたみたい
1585年、数正は突如として家康のもとから出奔し、秀吉のもとへ逃亡。出奔理由については様々な理由が唱えられていますが、はっきりとした理由は不明です。数正は徳川家の軍事機密を知り尽くしており、この出奔は家康にとって大きな衝撃を与えました。
機密情報漏洩のために、
徳川軍の軍制を武田流に変更したみたいやで
豊臣家家臣となった数正は、河内(大阪府)8万石を与えられています。また小田原征伐では、家康に遠慮してか、目立った動きを見せていません。
その後、松本10万石に転封されると、松本城の大改修と城下町の整備をしました。そして、数正は朝鮮出兵のため出陣しているときに亡くなってしまいました。
豊臣政権下では大した活躍はしておらんな
数正が亡くなった後、石川家は徳川家に再び仕えるんじゃ、