「戦国最強」の武将がいれば
「戦国最弱」の武将もいるはずだよね
戦国最弱の武将といえば
「小田氏治」が有名じゃよ
今回は小田氏治の生涯をみていこう!
小田氏治ってどんな武将?
小田氏治は常陸(茨城県)小田家の15代目の当主。小田家は鎌倉時代から続く関東の名門大名であり、氏治は室町幕府12代目将軍・足利義晴の従弟にあたる。
小田氏治が「戦国最弱」といわれる理由はその戦歴にある。なんと氏治の居城・小田城は9回も奪われた。
居城は本拠地だから大名ににとっては絶対絶命のピンチ!
ところが、氏治は何度城を占拠されてしまっても
その度に不死鳥のごとく奪還したんじゃ
9回も奪い取られた小田城
1回目の落城
氏治は父が亡くなったことで10代で家督を相続した。家督を継いだばかりの氏治にとって最大の敵は結城政勝であった。しかし、家臣が結城家へ寝返ってしまい、小田家の力が削がれてしまう。さらに、結城家は関東を牛耳っていた北条氏康とも結託した。
そこで氏治は常陸の佐竹義昭と共に結城政勝へ攻め込んだ。ところが、合戦に敗れてしまい小田城が奪われてしまった。
城を攻め込んだのに
逆に自分の城を奪われてしまったのか
佐竹義昭との戦い
北条氏康は常陸の進出を目論んでいたため、佐竹義昭に対抗するために氏治に和睦を持ちかけた。氏治はこれに応じ、さらに結城勢を追い払って小田城を奪還した。
小田城を奪われたのは北条のせいなのに
北条と和睦??
佐竹義昭は氏治の裏切りに激怒し、小田領へ侵攻した。氏治も負けじと応戦したが、敗北して小田城を占拠された。しかし、氏治の家臣が小田城をすぐに奪還した。
奪われてもすぐに奪還するのは見事じゃな
戦国最強と激突!!
宿敵の結城政勝が死去し、その子も病を患っていた。氏治はこれをチャンスと考え、結城城へ押し寄せた。氏治は勢いのまま結城城を陥落させることに成功した。
また当時、越後(新潟県)の上杉謙信は北条家の動きを監視するため、関東に兵を進めた。氏治を含む関東の多くの武将は謙信に味方した。しかし、謙信が北条家の小田原城を陥落できないのを知ると、氏治は上杉を裏切り北条に味方した。そして、氏治は佐竹領に攻め込み勝利した。ところが、謙信に進軍されてしまい、山王堂の戦いで大敗してしまい、小田城は落城してしまった。
戦国最弱が戦国最強に歯向かっても勝ち目はないよね
虎の威を借る狐
翌年、佐竹家の混乱に乗じて小田城を奪還することに成功したが、再び上杉謙信に攻められて小田城を奪われてしまう。そこで、甲斐の虎・武田信玄の援助を得た。また、謙信に降伏を申し出て、小田城の城壁を修復しないという条件で小田城を取り戻した
謙信に平謝りして
城を取り戻したのか
佐竹義重との戦い
佐竹義昭の後を継いだ佐竹義重が小田城へ攻めんこんできたため、氏治は野戦に撃ってでて、佐竹義重を相手に大勝利をあげた。
「鬼義重」といわれた佐竹義重に勝利するのはすごい!
でも油断はならないぞ
氏治は家臣との仲を深めるために大晦日に連歌会を開いて、家臣と酒を飲んで楽しんでいた。これを知っていた佐竹軍は翌朝の早朝に小田城へ攻め寄せた。氏治は再び小田城を奪われてしまう。しかし、5500の兵を率いて佐竹軍を討ち破り、すぐに城を奪還した。
太田資正に敗れて
次は太田資正が小田城へ攻め込んできた。このとき太田勢は鉄砲を使用しており、鉄砲を始めてみた氏治は撃退されてしまう。そしてそのまま、小田城が奪われた。
氏治は小田城を取り返そうとしたが、なかなか奪還できずにいた。さらに、重要な支城である土浦城も佐竹軍に取られてしまう。そこで、氏治は北条氏政に援軍を要請して、土浦城を奪還することに成功した。
小田城を奪還しようとするも、、、
氏治は小田城を奪還すべく、城の周辺に陣を敷いて佐竹軍へ攻め込んだ。最初こそ優勢であったが、佐竹方に太田資正が参戦してから合戦の雲行きが怪しくなった。氏治はいつものように北条家に援軍を要請したが、北条家は豊臣秀吉の猛攻撃を受けており援軍を出せずにいた。その後、北条家は滅亡してしまい、氏治は生涯小田城を取り戻すことができなかった。
豊臣秀吉がいなかったら
小田城を取り戻せたのに、、、
小田氏治の最後
小田原征伐後、氏治は北条攻めに参加しなかったことと佐竹家を攻撃したことを理由に豊臣秀吉から所領を没収されてしまう。つまり、大名としての小田家は取り潰されて滅亡した。その後、氏治は徳川家康の次男・結城秀康に仕官し、越前(福井県)で余生を過ごした。
ちなみに結城秀康は父親の徳川家康から嫌われて
結城家に養子に出されたみたい
なぜ城を何回も奪い返せたの?
小田氏治が何回も何回も城を奪われたにも関わらず、領主でいられたのには訳がある。実は領民の多くは氏治をかなり慕っていた。小田城が奪われても領民たちは新しい領主に年貢を納めることなく、わざわざ氏治のもとへ年貢を納めていたという。
さらに名門の小田家を支えてきた譜代の家臣たちも優秀であり、主君の氏治を慕っていたのだろう。
多くの家臣に慕われている主君は強いよね
まとめ
何度も敗北した小田氏治は戦国最弱の大名といわれている。ところが、何度も敗北しているのにも関わらず討死せず、たいてい一年以内に城を取り返すことができるのは大した手腕の持ち主である。
関東情勢をうまく読むことができれば、優秀な家臣団を率いる大名として天下に名をはせることができたかもしれない。
小田城は平地に築かれた城だったから
攻めやすく、守りにくい城だったというよ