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豊臣秀吉が惚れた女武者・甲斐姫は本当に実在したのか?

ひろ
ひろ

豊臣秀吉はたくさんの側室を抱えていたけど

その中でも有名なのが淀殿甲斐姫やな

織田信長
織田信長

淀殿は大坂の陣で亡くなったが、甲斐姫の行方は不明じゃな

ひろ
ひろ

甲斐姫は有名なわりに残っている資料が少ないからなー

今回は武闘派・甲斐姫についてみていこう!

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甲斐姫の相関図

ひろ
ひろ

忍城攻めの後、成田家は豊臣家家臣の蒲生氏郷の配下となったよ

そのときに、家臣から謀反を起こされたけど、甲斐姫が無事鎮圧したみたい

織田信長
織田信長

甲斐姫は秀吉の側室となってからも

秀吉に口添えして、父・氏長の石高をあげてさせたんじゃ

大した姫じゃ

蒲生氏郷。長生きしていれば徳川家康の対抗馬になれた名将。(wikipedia)

甲斐姫の誕生

甲斐姫かいひめは1572年、上野国こうずけのくに(群馬県)に成田氏長の娘として生まれました。19歳となったころ、甲斐姫はその容姿から「東国無双の美人」といわれていました。また、父・氏長には男児がいなかったため、氏長は甲斐姫に武術の稽古をさせています。そのため、「男であれば成田家を再興させて天下に名を成す人物」ともいわれるほどの実力があったようです。

ひろ
ひろ

甲斐姫の祖母・妙印尼みょういんには北条家から居城を攻め込まれた際

71歳という高齢にも関わらず籠城戦を指揮した武勇に秀でた人物だったみたい

豊臣秀吉。豊臣家の跡継ぎがいなかったため、側室を多く召し抱えた。(高台寺蔵)

窮地!!忍城攻め!!

本能寺の変明智光秀を破って以来、勢力を拡大していた豊臣秀吉は関東地方に侵攻。甲斐姫の生まれた成田家北条家の配下であったため、成田家の居城・忍城も秀吉の的となってしまいます

織田信長
織田信長

豊臣軍20万もの兵を連れて北条征伐に向けて出発したんじゃ

ひろ
ひろ

小説や映画で大ヒットした「のぼうの城」で描かれた戦いが始まるなー

秀吉は忍城攻めの大将として、武功が少なかった石田三成に大軍を与えて攻めさせます。その数2万3千。対する成田軍はわずか300人

また、城主・氏長は主君・北条家の居城を守っていたため、合戦の大将はいとこである成田長親となっていました。ところが実際には、武勇に秀でた甲斐姫が指揮を取ったといいます

織田信長
織田信長

三成は合戦で活躍したことがなかったから、周りの武将から鬱陶しく思われていたんじゃ

ひろ
ひろ

戦国時代では内政を充実させることよりも、

合戦で活躍することのほうが大事だったもんなー

忍城の周りは湖で囲まれており、攻め込むのが非常に難しい城でした。そのため、力ずくでは落城できないと考えた石田三成は水攻めを開始。ところが、水攻めを行っても成田軍の士気は衰えることなく、合戦は1ヶ月以上続きます。

ひろ
ひろ

かつて上杉謙信北条氏康などの名だたる武将が忍城を攻めたけど、陥落しなかったよ

忍城がなかなか陥落しなかったため、秀吉は家臣である浅野長政や、真田昌幸などに三成を援軍するよう要請。しかし、甲斐姫は自ら薙刀なぎなたを手に取り応戦し、これを退けています。

ところが小田原城では、主君・北条氏直が豊臣秀吉に降伏。これにより、成田家も秀吉に降伏し、忍城攻防戦は幕を閉じます。

ひろ
ひろ

北条家は関東各地にたくさんの支城を持っていたけど、忍城以外は陥落してしまったんだ

忍城。江戸時代になると、徳川家康の四男が城主となった。(wikipedia)

秀吉の側室に!!

戦国時代では城を明け渡すと、城兵が惨殺されるのが一般的でしたが、忍城の兵はそのような目にあいませんでした。というのも、武勇を聞きつけた豊臣秀吉は甲斐姫を気に入り、側室として召し抱えることにしたためです。

織田信長
織田信長

秀吉には16人の側室がいたようじゃ

秀吉の側室となってからの甲斐姫の動向ははっきりしていませんが、淀殿と仲がよく豊臣秀頼の養育係を務めたといわれています。そのため、大坂の陣のときには大坂城にいて、秀頼の娘・天秀尼とともに脱出したといいます。その後は天秀尼と一緒に鎌倉(神奈川県)で尼になり、生涯を終えました。

ひろ
ひろ

甲斐姫は武勇に秀でていたから徳川方へのスパイとしても活躍したともいうよ

天秀尼。天秀尼が本当に豊臣秀頼の娘であるかは不明。(東慶寺蔵)

まとめ

武勇に秀でた女性甲斐姫忍城攻防戦で活躍し、豊臣秀吉側室となりました。甲斐姫に関するエピソードはすべて本当であるかどうはわかりません。しかし、女性の地位が低かった時代に敢えて女武者の活躍を創作するのは不自然といえます。そのため、すべての逸話は否定する理由もありません。

ひろ
ひろ

甲斐姫が実在したかどうかも怪しくて

甲斐姫の墓が残っていないよ

醍醐の花見。豊臣秀吉が晩年に行った花見。このときに甲斐姫が書いた短冊は残っている。(日本花図絵)