鳥居元忠は徳川家康の忠臣で、命をかけて伏見城を守ったことで有名な武将やな
元忠は家康がまだ今川義元の人質だった頃からの家臣だからのー
その絆はただものではないぞ
それでは、徳川家康の忠臣・鳥居元忠についてみていこう!
鳥居元忠の年表
元忠の長男・忠政は24万石の大名に昇格しているよ
その後、鳥居家は行いが悪いとして改易されたんじゃ
鳥居元忠の誕生
鳥居元忠は1539年、三河(愛知県)に鳥居忠吉の三男として生まれました。元忠には2人の兄がいましたが、合戦で亡くなってしまったため、元忠が家督を継ぐことになります。また、父・忠吉は徳川家康の父・松平広忠に仕えていました。そのため、幼い頃から元忠は家康に仕えており、家康が今川義元のもとで人質生活をしているときも、同行しています。
家康とは4歳差と年が近かったから、親しかったというよ
徳川家康の忠臣として
桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、主君・徳川家康は今川家から独立。元忠は家康に従って、三河統一、姉川の戦い、長篠の戦いに出陣して活躍しました。
元忠は家康が武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いにも出陣しておって
この時に片足が不自由になってしまったんじゃ
本能寺の変で織田信長が亡くなると、全国各地で反乱が勃発。家康は旧武田領へ侵攻していた北条家と合戦をはじめます。このとき、北条軍の別働隊は家康の背後から奇襲攻撃を仕掛けようとしていました。元忠はこのことに気づくと、わずかな手勢で北条軍を撃退。このことが家康から称賛され谷村城の城主となります。
1万の北条軍を元忠は2000の兵で撃退したよ
しかも北条勢には500もの死者がでる大惨事だったよ
その後も家康に従って上田合戦や小田原城攻めに出陣。家康の本拠地が江戸に変わると、元忠は下総(千葉県)4万石の大名へ出世しました。元忠は隣国常陸(茨城県)の佐竹家や東北地方の諸大名を監視する役割を家康から任せられます。
元忠の配置から、家康との信頼関係がわかるのー
秀吉が元忠を家臣にしたいと誘ったが、元忠は断っておるんじゃ
三河武士の鑑!!
豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康は天下取りのため動き始めました。家康は豊臣政権で力をもっていた上杉景勝に謀反の疑いがあるとして、京都から上杉領へ侵攻。
家康は出発の前に元忠と酒を飲み交わしながら、
「わしは手勢不足のため伏見に残すは3000 ばかり。そなたには苦労をかける」と家康がいうと、
「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人(徳川家家臣)で事足ります。将来、殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城(伏見城)に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄です。一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と元忠は答えたといいます。
家康はこの言葉に深く感心して、夜遅くまで元忠と酒を飲み交わしたみたい
家康の会津侵攻を知った石田三成は挙兵し、元忠が籠る伏見城へ攻撃を開始。元忠はわずか1800人で、西軍4万を相手に奮戦。13日間も耐え抜きましたが、多勢に無勢で元忠は討死。首は京橋に晒されてしまいました。
元忠はもとから玉砕覚悟だったから、捨て身で戦ったんだろうなー
まとめ
鳥居元忠は幼い頃から徳川家康に仕えた忠臣。関ヶ原の戦い前に、石田三成に挙兵させるという大役を家康から任せられ、伏見城で合戦を繰り広げました。元忠の忠義は天下に知れ渡ることとなり、「三河武士の鑑」として讃えられています。
戦国時代でも勝手に合戦を始めるのは御法度で
大義名分がないと合戦を始めることはできなかったんじゃ
それで家康は三成に挙兵させたかったんやなー