津軽為信は青森県の大名
津軽海峡の「津軽」やな!
為信は戦国の梟雄じゃ
裏切りや謀略で勢力を拡大したんじゃー
青森県にも智略に満ちた戦国武将がいたんやなー
それでは津軽為信の生涯を見ていこう!
津軽為信の年表
為信は秀吉の信頼を得ていたから
惣無事令を無視していると南部家に報告されたときでも許されているよ
ライバルの南部信直も秀吉に接近したようじゃが上手くはいかなかったようじゃわい
津軽為信の相関図
為信は関ヶ原の戦いでは東軍に味方したけど、石田三成への恩義を忘れていなくて
三成の次男・重成を匿って津軽に帰国しているよ
重成の子は津軽家の家臣となって藩政を支えたんじゃよ
津軽為信の誕生
津軽(大浦)為信は1550年、大浦守信の子といわれていますが、はっきりしていません。為信が生まれた大浦家は南部家から派生した一族であり、大浦城に拠点を構えていました。南部家は陸奥(岩手県)の大名で、青森県と岩手県の広大な範囲を支配していました。
南部家は甲斐(山梨県)を本拠地にしていたけど
平安時代の末期に東北地方に移りすんだ一族やな
南部家から独立へ
為信は伯父・大浦為則から家督を相続し、当主に就任。この頃、南部家では家督争いが起きており、為信はここにつけ込んで独立しようと画策しました。為信は手始めに南部一族の石川高信に奇襲攻撃を仕掛けて討ち取ることに成功。
城の工事を装って、石川高信の城に近づいたそうじゃ
為信はこの日のうちに小山内讃岐守の城にも攻め込んで陥落させたよ
さらに1575年、大雪で歩きにくい中、南部家の家臣・滝本重行が守る大光寺城を攻め落とします。そして1578年には、北畠顕村が守る浪岡城に忍者を潜り込ませて、城内を混乱させてから奇襲攻撃を行っています。
北畠顕村は津軽地方で絶大な影響力をもっていた名門家だったよ
為信に追われた領主や一族は落ち延びて、南部家や安東家を頼っていました。彼らは安東家のもと一致団結して、津軽へ侵攻。為信の本陣のほとんどが討ち取られるという状況にまで追い詰められますが、田中太郎五郎という家臣の活躍により、為信は勝利をおさめています。そして、南部晴政が亡くなると為信は南部家の支城を次々と攻略して、津軽地方のほぼ全域を制圧しました。
田中太郎五郎は為信の影武者として敵陣に乗り込み、命を賭して時間稼ぎをしたんだよ
弘前藩の開祖!!
為信は出羽山形県の大名・最上義光と親交があり、義光から豊臣政権に関する情報を手に入れていました。そして、南部家からの独立を認めてもらうために豊臣秀吉に接近。秀吉から独立を認められ、「津軽」の姓を賜ることを許されます。
青森県から京都まではかなり遠いから何回も上洛に失敗しているよ
また、小田原征伐の招集がかかると、大至急小田原城に出向き、秀吉からの信頼を得ています。また、為信の祖父・大浦政信が公家近衛家の御落胤という伝承を伝えて、近衛家に接近して近衛家の養子になりました。秀吉は関白に就任すべく近衛家の養子となっていたため、為信は秀吉と義兄弟となることに成功しています。その後、九戸政実の乱や朝鮮出兵で活躍し、秀吉からの信頼を得ています。
為信は禿鼠(秀吉)に接近することで、政権を維持しておったんじゃな
豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが起こると、為信は東軍に味方しようとしました。ところが、長男・信建が石田三成の恩義に報いるため西軍に参戦。津軽家は真田家と同じように東軍と西軍の両方に参戦することになってしまいます。
関ヶ原の戦い後、弘前城の普請に取り掛かりました。ところが、長男・信建が上洛中に病気にかかり倒れると、見舞いのために為信も上洛。しかし、到着前に信建が亡くなり、ショックを受けた為信もその2ヶ月後に亡くなってしまいました。
上洛の本当の理由は、
持病を京都の名医に診てもらいたかったという説もあるよ
まとめ
津軽為信は南部家の一介の一族であったにも関わらず、一代で青森県を代表する大名にまで成り上がった武将です。為信は謀略によって勢力を拡大をしたことから悪人と考えられることが多い武将ですが、親友の三成の子を匿うなど、優しい一面もある人物です。
為信は豊臣秀吉にはとても恩を感じていたようで
弘前城近くの神社の開かず厨子があって、その中には豊臣秀吉の木像が保管されていたみたい
江戸時代にもし見つかっていたら、津軽家は改易を免れなかっただろうなー