黒田長政は天才軍師黒田官兵衛の子どもやな
長政も官兵衛に隠れてあまり目立たない武将じゃが、
かなりの才能の持ち主じゃ
ただこいつも石田三成と仲が悪かったせいで豊臣家をうらぎったんじゃー
長政も家康に取り込まれてしまったのかな?
それでは黒田長政の生涯をみていこう!!
黒田長政の年表
豊臣の武将として合戦に参加して功績をあげていたんやな
朝鮮出兵では二度も出陣してくれたんじゃ
黒田長政の相関図
秀吉さんが亡くなったら
秀吉さんの養女と離婚して
家康の養女と結婚したのか!?
長政は清正や正則と仲がよかったからのー
それに官兵衛に影響されてキリシタンになったんじゃ
黒田長政の誕生
黒田長政は1568年、播磨(兵庫県)の武将黒田官兵衛の長男として生まれました。後藤又兵衛とともに官兵衛のもとで育てられます。
官兵衛は織田信長が台頭してくると、主君小寺政職を裏切って信長に従っています。
信長公に仕えて
わしとともに合戦に参加したんじゃ
信長の家臣荒木村重が謀反を起こしたのでした。そこで村重と仲の良かった官兵衛は説得しにいきますが、失敗してしまい幽閉されてしまいます。
官兵衛がなかなか戻ってこないため信長は官兵衛も裏切ったと勘違いし、人質であった長政の首を差し出すよう豊臣秀吉に命じました。
ところが秀吉は官兵衛に限って裏切るはずはないと思っていたので、長政の処刑を迷っていました。
そこで秀吉の軍師で官兵衛と仲の良かった竹中半兵衛は長政の首とは違う子どもの首を用意して信長に差し出し、長政を助けました。
このとき信長は首が違うことに気づいていたともいわれてる
その後信長は村重の居城有岡城は攻め落とし、官兵衛は牢屋から救出されました。官兵衛の謀反の罪は晴らされ、黒田親子は半兵衛に感謝したといいます。
生涯あまたの合戦に参加した長政じゃが
このときが一番死にちかかっただろうな
官兵衛が幽閉からでてきたとき
すでに半兵衛は病気で亡くなっていたんだ
家康に接近!?
本能寺の変で信長が亡くなると官兵衛は豊臣秀吉に仕えたので、長政も秀吉のもとで働きました。
賤ヶ岳の戦いで武功をあげると秀吉から領地を与えられます。その後九州攻めや朝鮮出兵に参加して奮戦します。
しかし朝鮮出兵の時に加藤清正らと同様に石田三成との関係が悪化し、秀吉の死後清正らと石田三成邸を襲撃しています。この襲撃は失敗に終わりますが、豊臣恩顧の武将の間に亀裂が大きくなりました。その後、長政や清正は徳川家康に接近しています
三成はたくさんの豊臣恩顧の武将を敵にまわしているなー
東軍の将に寝返る
三成と不仲な長政は家康の養女を妻としてむかえいれるなどして、家康に接近するようになりました。
長政は豊臣恩顧の武将を東軍に引き込むという重要な役割に担います。とくに関ヶ原の戦いのキーパーソンとなる小早川秀秋を引き込むことに成功しています。
このことで家康から福岡藩52万石を与えられました。
関ヶ原の戦いの以前
全国の大名はどちらにつくか迷っていたから
各地の大名を引き込めたのはすごいよな
こうした働きから長政は家康から信頼されているかと思いきや大坂冬の陣では江戸城の留守を任されてしまいます。
このことが非常に不本意だったのか長政は大坂夏の陣で少ない兵ながら出陣し、豊臣滅亡を見届けました。
長政も家康に操られていると感じたんだろうな
ただ江戸時代にお家お取り壊しにならなくてすんでよかったのー
「福岡」は長政が名付けた地名で
黒田家ゆかりの地である備前(岡山県)の福岡にちなんだ地名やな
まとめ
黒田長政は父官兵衛にも劣らない武功に優れた戦国武将でした。長政は武功だけでなく、関ヶ原の戦いの前に根回しをするなど政治的な活躍もできる優秀な大名です。
長政の死のまぎわに徳川家から
「天下をとれたのは黒田父子の力による」
との書簡が届いたそうだよ
長政は能楽の歌謡を好んで歌ったんじゃが、
うまくなかったのか
家臣から人前では歌わないようにいわれていたそうじゃ
長政の兜は源義経が駆け下りた一ノ谷の鵯越の崖を表してるで
長政と正則は朝鮮出兵のときに兜を交換したんじゃ