
「大河ドラマ・どうする家康」で登場する北条氏政は
駿河太郎さんが演じている北条家の四代目ですね

北条氏政は北条家を滅ぼしてしもうたから
暗愚な武将だと言われておるな

北条氏政は北条家を滅ぼしてしまいましたが
本当に暗愚な武将だったのでしょうか?
北条氏政の年表


北条氏政の家系図


北条氏政と北条政子は関係ある?
北条氏政(演 : 駿河太郎)は1538年、相模(神奈川県)に北条氏康の次男として生まれました。北条氏政は元々長男ではありませんでしたが、長男の北条氏親が16歳で亡くなってしまったため、次男の北条氏政が北条家の家督を継ぐことになりました。
また、北条氏政は弟たちを頼りにしており、弟たちは兄弟衆として北条家を支え続けました。さらに、末弟の上杉景虎(北条三郎)を上杉謙信の養子として送り出しました。


北条氏政と北条政子の直接的な関係はありません
小田原北条家は鎌倉北条家を習って築かれた家です
北条氏政は武田信玄と上杉謙信と激突
父・北条氏康が武田信玄(演 : 阿部寛)と今川義元(演 : 野村萬斎)との間で甲相駿三国同盟を締結しました。そのため、北条氏政は同盟の証として、武田信玄の娘・黄梅院を正室として迎えました。


父・北条氏康は「相模の獅子」と言われ
8万の敵をわずか数千で撃ち破ったと言われています
また、北条氏政は父から家督を譲られましたが、それは名目上のもので、実権は依然として父が握っていました。この背景には、父・北条氏康が領民の不満を解消する目的で、自身が隠居することによって民の不満を和らげようとしたからです。


当時、関東では「永禄の飢饉」と呼ばれる大飢饉と疫病が流行していたようです
北条氏政が家督を継いだ2年後、上杉謙信は関東や東北の諸大名を率いて10万人の兵で小田原城を包囲しました。対する北条方はわずか2万人の兵しかいませんでした。絶体絶命の状況でしたが、同盟相手である武田信玄や今川氏真の支援もあり、鉄壁の防御を誇る小田原城が陥落することはありませんでした。


北条氏政が小田原城を軍神・上杉謙信の大軍から守り抜いたから
豊臣秀吉にも負けないと思ったかも知れませんね
その後、武田信玄と上杉謙信が川中島の戦いで激突した際、上杉軍が大損害を負ったことを好機と見て、北条氏政は上杉に奪われた領地を奪還しました。
今川義元が桶狭間の戦いで急逝した後、今川家が没落していく中、武田信玄は三国同盟を破棄して駿河(静岡県)に侵攻しました。北条氏政は今川との同盟を重視していたため、当主である今川氏真(演:溝端淳平)を救うべく出陣しました。さらに、今川との関係を強化する目的で、嫡男の北条氏直(演:西山潤)を今川氏真の養子にし、武田との同盟を解消するために妻・黄梅院と離縁しました。


北条氏康の正室が今川の娘だったため
北条は今川を救おうとしたと言われています
また、北条氏政は武田信玄に対抗するため、かつての宿敵であった上杉謙信と越相同盟を結びました。この際に、北条氏政は弟の上杉景虎(北条三郎)を上杉謙信の養子として差し出しました。これに憤った武田信玄は北条の小田原城に侵攻しましたが、鉄壁の防御を誇る小田原城によって撃退されました。


小田原城は武田信玄でも上杉謙信でも
落とせなかった難攻不落の城ですね
北条氏政は優秀な武将!?
北条は当初、上杉との同盟を通じて武田を追い詰めようと考えていました。しかし、上杉が同盟に協力的でなかったこと、そして父・北条氏康が亡くなり、北条氏政が名実ともに北条家の当主となったことから方針を変更しました。結果として、北条氏政は上杉謙信との同盟を解消し、武田信玄と甲相同盟を締結しました。この変化によって、北条家は再び上杉と対立することとなりましたが、上杉謙信が越中(富山県)に主要な焦点を当てていたため、大規模な合戦は起きませんでした。この隙間を利用して、北条氏政は関東地方で急速に勢力を拡大し、宿敵である里見義弘とも和睦に成功しました。


上杉謙信は織田信長との戦いに目を受けていたからですね
その後、武田信玄と上杉謙信が亡くなったことで、上杉家内で家督争いが勃発しました。この争いは「御館の乱」と呼ばれ、上杉謙信の甥である上杉景勝と、北条氏政の弟であり上杉謙信の養子である上杉景虎が対立しました。北条氏政は上杉景虎を支援したものの、上杉景勝が武田勝頼(演:眞栄田郷敦)と同盟を結び、その結果上杉景虎は敗北しました。


うまくいけば北条、武田、上杉の三国同盟が成功していたかも知れませんね
御館の乱の結果、北条家は武田、上杉、佐竹といった有力大名に囲まれる状況となりました。これを受けて、畿内で勢力を拡大していた織田信長(演:岡田准一)に臣従する道を選びました。この事態を契機に、北条氏政は家督を嫡男の北条氏直に譲りました。その後、北条家は織田・徳川連合と協力して武田家を滅ぼしました。


北条氏政は優柔不断なのか行動が遅かったために
織田信長から嫌われていたようです
北条氏政と徳川家康の関係は?
本能寺の変で織田信長(演:岡田准一)が急死した後、旧武田領を巡って北条、徳川、上杉などの間で天正壬午の乱が勃発しました。北条は半分以上支配していたことのある上野(群馬)の領地を取り戻すために、侵攻を開始します。
しかし、徳川軍の鳥居元忠(演:音尾琢真)に敗れ、織田信雄(演:浜野謙太)の説得もあり、北条と徳川は和睦を結びました。この際、北条氏直は上野(群馬県)の領有権を獲得し、徳川家康(演:松本潤)の次女・督姫(演:清乃あさ姫)と結婚し、北条と徳川は同盟を結びました。


北条と徳川は小牧長久手の戦いのときには共に戦い
北条は佐竹の抑えとして戦っています
北条氏政はなぜ豊臣秀吉に戦いを挑んだのか
北条は徳川家康と同盟を結んで以来、下野(栃木県)と常陸(茨城県)に侵攻し、関東の大名らを圧倒しました。しかし、豊臣秀吉(演 : ムロツヨシ)が惣無事令を発令し、大名間の戦が禁止されたため、北条は豊臣との決戦に備えて軍備を強化しました。それでも、当主の北条氏直は豊臣の強さを認識しており、叔父の北条氏規を上洛させて豊臣秀吉と交渉させています。
しかし、1589年に北条家の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸(演:佐藤浩市)の支城・名胡桃城を奪取し、これが惣無事令に反する行為とされ、豊臣との関係が破綻しました。この問題に対して、北条は徳川家康を通じて豊臣秀吉に弁明を試みましたが、失敗しています。


北条は猪俣邦憲を処分しなかったことから
豊臣との決戦の意思があったのかもしれませんね
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、豊臣軍は20万の兵力で小田原城を包囲しました。一方、北条は領内の民間人を含む5万の兵で籠城しました。北条氏政は、武田信玄や上杉謙信も落とせなかった小田原城の堅固さ、そして同盟者である徳川家康や伊達政宗が味方についてくれると期待していましたが、その期待は裏切られました。


この小田原征伐で北条方がいつまで話し合っても結論が出ない様子から
「小田原評定」という言葉が生まれました
その後も北条家は籠城を続けましたが、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の説得もあり、最終的には100日にわたる籠城の末に降伏しました。その結果、主戦派であった北条氏政と弟の北条氏照は切腹させられ、嫡男の北条氏直は助命され高野山に追放されました。
北条氏直の家紋
小田原北条家は、初代の北条早雲が鎌倉執権の北条家を見習って築いた大名家です。そのため、小田原北条家の家紋は鎌倉執権北条家のものに似た家紋を使用しています。
また、北条早雲は伊勢氏の出身であり、その影響で「対い蝶」の家紋を使用していました。一方で、鎌倉の北条家は平氏出身であったため、小田原北条家も平氏を自称し、「揚羽蝶」の家紋を使用していました。


北条氏政の子孫
北条氏政の後を継いだ北条氏直は徳川家康の次女・督姫を娶りました。2人の間には2人の女児が生まれたようですが、長女は夭折し、次女も17歳で病気により亡くなりました。


北条氏政の嫡流はすぐに途絶えてしまったんですね、、、
まとめ
北条氏政は、武田信玄や上杉謙信といった武将と争いながらも勢力を拡大した優れた武将でした。しかし、北条家が滅亡したことから、しばしば愚将と評されることもあります。


北条氏政にはこのような逸話が残っています
北条氏政は毎日ご飯に味噌汁をかけていました。ある時かける量が少なかったためにもう一度汁をかけたことがあるそうです。これをみた父・北条氏康は
「毎日の食事であるにもかかわらず、ご飯にかける汁の量がわからないとは北条家も終わりだな」
となげいたといいます。


これは作り話でしょうが
北条家を滅ぼしてしまった北条氏政は愚将として捉えられていたのでしょう


いつもブログをご覧いただき本当にありがとうございます。 皆様の応援が心の支えとなっています。 もし、活動をもっと応援して頂ける方がいましたら、 以下のAmazonの欲しいものリストの中からプレゼントを送っていただけたら全力で喜びます!



