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[5分でわかる!!]主君尼子家の再興をひたすら願った武将!!

戦国武将
ひろ
ひろ

今回はまじめすぎる武将山中鹿介!!

織田信長
織田信長

鹿介は主君で尼子家の再興のため尽力した人物じゃな

やつの忠義はただ者ではないぞ!!

ひろ
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それでは苦労人山中鹿介の生涯をみていこう!!

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山中鹿介の年表

ひろ
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鹿介が生まれたころは毛利元就が中国地方での派遣を握りだしていて、

尼子家の勢力は衰えだしていた頃やなー

織田信長
織田信長

毛利元就は戦の天才じゃったからのー

生涯一度も合戦で負けておらん

山中鹿介。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」といわれた。(安来市立歴史資料館蔵)

山中鹿介の相関図

ひろ
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鹿介の母山中浪やまなかなみは鹿介にとても厳しかったというよ

一説には鹿介に罰として雪の中で半日正座させたみたいやで

織田信長
織田信長

鹿介の父が早世してしまったから、

母は鹿介に厳しく教育しないと尼子家での居場所がなくなってしまうと考えたんじゃろな

山中鹿介。尼子家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈っている様子。(芳年武者无類)

山中鹿介の誕生

山中鹿介やまなかしかのすけは1545年、出雲(島根県)に山中満幸の子として生まれました。本名を山中幸盛やまなかゆきもりといいます。鹿介は幼い頃から身体の弱い兄が他の人から馬鹿にされているのをみると、やり返しにいったといいます。

織田信長
織田信長

鹿介は幼い頃から正義感が強かったようやな

鹿介は10歳ごろから弓馬や軍法を熱心に学び、13歳のときには敵の首を討ち取ったといいます。そして、鹿介は父を幼い頃に亡くしていたため、16歳で家督を継ぎました。それ以来尼子十勇士のひとりに数えられるほど合戦で武功をあげ、尼子家に尽くしていました

ひろ
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鹿介は一騎打ちでよく敵将を討ち取っていたみたいやで

山中鹿介。鹿介の髭は針のように鋭くて硬く、障子を簡単に貫いたという。(ウォルターズ美術館所蔵)

尼子氏滅亡で流浪の身に!?

主君尼子家は尼子晴久のとき中国地方最大の勢力となっていました。ところが、安芸あき(広島県)の大名毛利元就との月山富田城がっさんとだじょうの戦いで敗北してしまい、尼子家は滅亡してしまいます。

尼子家が滅亡してしまったため、鹿介は流浪の身になってしまいます。ところが忠義心の強い鹿介は尼子家再興を決心し、すでに出家していた尼子勝久に再起を促します。資金集めなどをしながら、一度は出雲を奪い返します。

しかし毛利家の反撃にあってしまい、元就の息子吉川元春に捕縛されてしまいます。

ひろ
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一度は出雲のほとんどを奪い返したのはすごいなー

毛利元就。尼子家を滅ぼした。(毛利博物館蔵)

尼子氏再興を目指す!!

幽閉されたとはいえここで諦めないのが鹿介。鹿介は根性で牢屋から抜け出し、勢力を拡大していた織田信長に助けを求めました。

ひろ
ひろ

鹿介は毛利家から脱出するために何度もトイレにいって

看守の目をかわしたというよ

鹿介は信長の家臣明智光秀のもとで、信貴山城の戦いに参戦して二番目の武功をあげました。そして、豊臣秀吉に従って中国攻めに参戦し、上月城こうづきじょうを居城とします。上月城に尼子勝久を当主に立てますが、またも毛利家に攻められて上月城は陥落。

このことで勝久は自害してしまいます。鹿介は毛利家に生け捕られてしまいます。その後毛利家の吉川元春が鹿介の尼子家再興の執念を危険視し、鹿介を処刑しました

織田信長
織田信長

鹿介の合戦での活躍は目覚ましかったから

わしは鹿介の実力を認めていたんじゃよ

尼子勝久。尼子家の最後の当主。尼子家の残党は毛利家に臣従して幕末まで続いた。(落合芳幾画)

まとめ

山中鹿介の忠義は「忠君愛国の鑑」として戦前には教科書に載るくらいの武将でした。実力主義の戦国時代では主君を何度も変えることが奨励されていたため、鹿介のように主君を変えないストイックな生き様は珍しかったといえます。

ひろ
ひろ

鹿介は吉川元春に危険視されて処刑されてしまったけど、

鹿介の息子は現在の鴻池財閥創設者となったんやで

新六。山中鹿介の息子。鴻池財閥の創設者。(wikipedia)