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片倉重長が小早川秀秋にストーカー被害!?仲介に入った伊達政宗が下した決断とは?

戦国武将
ひろ
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片倉重長伊達政宗の腹心・片倉景綱の長男!!

二代目小十郎として有名だなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

重長も父と同じで伊達家に尽くした武将じゃ

ひろ
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今回は片倉重長の強烈エピソードを見ていくよ

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エピソードその1

重長の父・片倉景綱伊達政宗に忠実すぎる家臣でした。そのため、景綱は「主君より先に男子に恵まれたら家臣として申し訳が立たない」と考え、「先に男子ができたら殺めます」と政宗に宣言していました。

しかし、景綱は政宗よりも10歳も歳上であったため、景綱の方が先に子を授かってしまいます。宣言通り殺害しようとしますが、政宗は必死に景綱をなだめたといいます。この子どもこそ、片倉重長でした。

ひろ
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重長は生まれた瞬間から危険だったんだな

片倉小十郎景綱。初代小十郎。小十郎といえば、片倉景綱のことを指す。(仙台市博物館所蔵)

エピソードその2

重長は戦国屈指のイケメン武将として知られています。そのため、男色家として知られる小早川秀秋は重長を見るや否や一目惚れしてしまい、どうしても関係を持ちたいために重長をつけまわすようになります。

これに困った重長は主君・伊達政宗に相談するも、「嫌な理由は色々あるとは思うが、一度くらいの関係なのだから我慢してくれないか。主命に従わないのなら、親の首を斬らないといけないからよく考えるように」との手紙が届いたといいます。

ひろ
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その後の話は残っていないからわからないよ

小早川秀秋。7歳のころ酒を飲み始め、アルコール依存症でもあった。(高台寺蔵)

エピソードその3

重長は先ほども述べたようにイケメンだったため、主君・政宗も放ってはおきません。政宗もまた男色家であったため、重長を寵愛していました。

大坂の陣では、重長が「伊達軍の先鋒として戦いたい」と政宗に伝えたところ、政宗は重長の頬にキスをした後、涙を流しながら了承。重長も涙ながらに喜びました。そして、敵将の後藤又兵衛を討ち取り、「鬼の小十郎」と称されました。

ひろ
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父・景綱重長のことを褒めることはなくて

一軍の将にも関わらず敵将と刃を交えるとは何事だと怒ったというよ

伊達政宗。真田幸村との激戦から撤退したため、「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」と嘲笑された。(東福寺霊源院蔵)

まとめ

片倉重長は敵将に認められるほどの武勇の持ち主でありながら、このように強烈なエピソードを持ち合わせている武将でもあります。ここには、二代目小十郎としての意地が感じられます。

ひろ
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政宗は重長に対して、「国の久しいことを心がけ、よく取りはからってほしい」と伝えて去っていったよ

片倉重長。真田幸村の娘を継室とした。(落合芳幾作)