伊達政宗の家臣で有名なのが片倉小十郎だよなー
戦国武将の中でも一際忠義の厚い男じゃ
その忠義に豊臣秀吉も感心したというもんなー
それでは片倉小十郎の生涯を見ていこう!
片倉小十郎の年表
政宗が腹のできものが治らなく困っていたから
小十郎は熱棒で焼き切ることを提案したんだよー
そこで熱棒の熱さがどんなものか知るために
小十郎は自分の体で実験してから政宗の腹を焼いたそうじゃ
片倉小十郎の相関図
鬼庭家は伊達家の重臣で、
父を亡くした小十郎の二人目の父親が鬼庭良直だな
鬼庭良直の連れ子が喜多と鬼庭綱元ということじゃな
片倉小十郎の誕生
片倉小十郎は1557年、米沢(山形県)に片倉景重の次男として生まれ、本名は片倉景綱といいます。父景重は成島八幡宮の神職であり、戦国武将ではありません。
小十郎は幼い頃、両親を亡くしてしまったため、年の離れた姉・喜多に育てられます。喜多は母のような存在であり、文武両道でした。小十郎はそんな姉の影響を受けて育ちました。
喜多に武術をたたきこまれたみたいやな
政宗への忠誠心!!
伊達政宗が生まれると、喜多は乳母に任命されます。姉の口添えがあったのか小十郎は政宗の小姓として仕えるようになりました。
政宗と小十郎は10歳差だったんじゃ
政宗は幼い頃、疱瘡にかかり右目の視力を失ってしまい、その容姿からとても内気な性格だったといいます。そこで小十郎は政宗に元気を出してもらうため、飛び出た右目をえぐりとりました。政宗は痛みで気を失いそうになりましたが、性格は激変し、活発な少年へと変わりました。
この話は創作といわれているよ
忠誠心の厚すぎた小十郎は、「主君より先に男子に恵まれたら家臣として申し訳が立たない」と考え、「先に男子ができたらあやめます」と政宗に宣言していました。ところが、小十郎は政宗より年上であったため先に子どもを授かってしまいます。小十郎は宣言通り殺害しようとしますが、政宗は必死に小十郎をなだめたといいます。
このときに生まれた片倉重長は二代目・小十郎として伊達家を支え、
「鬼の小十郎」として知られたよ
実は小十郎の案!?
伊達軍は宿敵・佐竹家との人取橋の戦いで大敗し、戦場からの撤退途中、政宗は敵に取り囲まれて絶体絶命。そこで小十郎は政宗のフリをして敵を引きつけ身代わりとなります。小十郎の活躍により、政宗は無事生還しました。
このとき伊達軍の殿を務めた鬼庭良直は亡くなったんじゃ
小十郎の活躍により政宗は東北地方で領土を拡大していきますが、北条家を滅ぼした豊臣秀吉が立ち塞がります。秀吉は政宗に従うよう要求するも、伊達家内では抗戦派と恭順派に真っ二つに割れていました。
小十郎は「豊臣軍はハエのようなもの。いくら叩いてもどんどん沸いてきます。すなわち、我軍が何度か勝ってもいずれ持ちこたえられなくなり、いずれ負けるでしょう」と政宗を説得。政宗は秀吉に従うことに決めます。
とはいえ、伊達軍の出発は大幅遅れていたため、切腹を覚悟。そのため死装束を着て秀吉の前に現れました。これにより秀吉の機嫌をとりもち、政宗たちは切腹をなんとか逃れます。
死装束を考案したのも小十郎みたいやなー
それに小十郎は秀吉が茶の湯を好きなのを知っていたから、政宗に茶の湯を習うように提案したみたいだよ
秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起きると、伊達家は最上家とともに西軍についた上杉景勝と激突。このとき小十郎は「最上と上杉に戦わせて、兵力を疲弊させたら良い」と政宗に進言したようです。
最上義光の妹は政宗の母親じゃったから、
さすがにこの案は却下されたそうじゃ
関ヶ原の戦い後、小十郎は徳川家康に認められて、白石城を賜っています。そして大坂の陣を見届けた後に亡くなりました。
普通、領土内に1つしか城をもってはいけない一国一城令があったけど、
家康はこれを無視して小十郎に城を与えたんだ
まとめ
片倉小十郎は伊達政宗を支えた忠義者でした。小十郎がいなければ、政宗の活躍はなかったといっても過言ではありません。
小十郎という名前は片倉家の当主が代々襲名するものだよ
片倉景綱は初代・小十郎だな