
夏目広次は「どうする家康」で甲本雅裕さんが演じている戦国武将ですね
夏目広次は家康から何回も名前を間違えらている武将でもありますね

広次はわしが幼い頃から仕えている家臣じゃ
しかし、三河一向一揆で裏切ってしもうた、、、

夏目広次はどうして裏切ったのか
その後の生涯はどうなったのかを見てみましょう
夏目広次の誕生
夏目広次(夏目吉信)は1518年、松平家の家臣・夏目吉久の家臣として三河(愛知県)に誕生しました。通称は次郎左衛門といい、旧名は「夏目吉信」です。


夏目広次は家康よりも25歳も年上ですね
夏目家は、信濃国夏目村(長野県)の清和源氏村上氏の流れを汲み、松平(徳川)に仕え譜代衆となっていました。
夏目広次が松平家に仕え始めた頃、徳川家康は今川義元のもとで人質生活を送っていました。しかし、桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討ち取られると、主君の徳川家康は三河(愛知県)の統一にのりだしました。
1561年、家康は手始めに三河長沢城への侵攻を始めると、広次はこのときに軍功を上げたと言われています。また、1562年、八幡村城攻めにおいて、今川方からの猛攻にあった際には、徳川家康を守るために最も危険な殿を務め、敵を何度も踏みとどまらせるほどの働きを見せました。
広次はこれらの功績により、家康から「名刀工備前長光」の脇差を賜りました。広次は家康から信頼のおける家臣として認められていたようです。


わしは夏目を信頼しておったんじゃ
夏目広次の裏切り
1563年、徳川家康は財政難のために岡崎(愛知県)の寺に対して年貢の取り立てを行いました。それに対して、寺側は武力をもって反発し、三河一向一揆が勃発しました。夏目広次は家康への忠義と寺への信仰心との間で悩みましたが、最終的に家康を裏切り、寺に味方することに決めました。


夏目広次の苦悩の様子はどうする家康でも描かれていましたね
その後、徳川方は優勢となり寺との和睦を結ぶと、夏目広次は多くの家臣からの除名嘆願もあり、家康のもとへ帰参を許されました。
三方ヶ原の戦いで家康の命を守る、、、
一向一揆の後、夏目広次は家康への忠誠心を人一倍としました。1572年、主君の家康が武田信玄と領土問題になり三方ヶ原の戦いを起こします。三方ヶ原の戦いのとき、広次は家康の居城の浜松城の留守役でしたが、徳川方が敗色濃厚だと知ると、家康のもとに馳せ参じて退却を進言しました。
それでも家康が突撃しようとしたため、広次は家康の馬の向きを強引に変えて刀でみねを打ちました。そして、家康の兜を被って影武者となり、25騎の兵を率いて武田勢に突撃しました。


夏目広次は55歳で亡くなってしまいました
夏目広次の子どもたち
夏目広次が三方ヶ原の戦いで討ち死にした時にはすでに、長男と次男は亡くなっていました。さらに三男・信次も出奔しており、「松下」の姓を称していました。そのため、夏目家は四男の忠吉が後を継ぎました。忠吉は韮山城1万石を与えられる予定でしたが、すぐに病死してしまい、子も6歳で亡くなってしまいます。
その後、吉信の三男・信次は同僚と口論したために、同僚を斬り殺してしまいました。そのため、名を変えながら徳川に仕えていました。しかし、1605年に家康に名を問いだされると、父が「夏目広次」であることを伝えると、罪が重いものの、530石の旗本として徳川家に仕えることを許された。


夏目広次の子孫はあの有名な夏目漱石ではないかと言われているよ
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