いつの時代、どこの世界にも暴君は存在するけど
戦国時代にも暴君はいたのかな?
戦国時代の暴君として有名なのは三好長治じゃよ
三好長治?あまり聞いたことがない戦国大名だな
今回は戦国時代の暴君・三好長治についてみてみましょう!
三好長治とは?
三好長治は実休(三好義賢)の長男として生まれた。当時の三好家は、三好長慶が筆頭にたって織田信長よりも先に畿内を制圧していた。
ところが、長慶の弟・十河一存の急死により三好家は衰退してゆく。また1562年に久米田の戦いで長慶の弟・実休であり長治の父が戦死してしまう。
長治は父の後を継いで阿波三好家の当主となり、阿波(徳島県)を治める大名となった。阿波は三好家発祥の地であり、三好が畿内にて活動するための人やモノの供給拠点であった。しかし、長治はまだ10歳であったため、重臣の篠原長房が内政を代わりに担当した。長房は優秀な家臣で、分国法を制定したり、14代目将軍・足利義栄の擁立をしたりした。
まだ、長治は家臣に支えられているから暴君ではないね
歴史上の暴君のほとんどが
最初はいいヤツなんじゃよ
三好長治の暴君エピソード
それでは、三好長治が暴君といわれる理由をみてみましょう!
その1.優秀な家臣を自害させる
優秀な家臣はいつの時代も憎まれるもの。篠原長房の弟の自遁は三好長治に讒言をした。ところが、その理由がなんともばかげていた。
自遁はろくでもない人物で、長治の生母と密通した。それを知った長房は激怒。ところが、自遁は逆恨みして長治に諫言したという。長治はすっかり自遁のことを信じてしまい、長房に兵を向けて自刃に追い込んだ。これにより阿波は大混乱に陥ってしまう。
長治は有能な家臣を自らの手で滅ぼしてしまったのか、、、
その2.少年を即日牛裂きの刑に
長治は長房がいなくなったことで有頂天となり、好き放題に阿波を牛耳りはじめた。長房は毎日のように酒宴にふけって政治をないがしろにしていた。そのせいで家臣からの信頼も失った。
長治は家臣からの諫言を受けても無視したらしい
また、長治が鷹狩りを楽しんでいたとき、その場に居合わせた少年が鷹に驚き、その鷹を殺してしまうという事件が起きた。長治はこれに激怒し、少年を捕らえて即日牛裂きの刑に処した。
牛裂きの刑は両足を暴れ牛にくくりつけて、また人間を真っ二つにする刑罰。当時でも凶悪犯や盗賊にしか適用されない刑であった。こんな恐ろしい刑を少年にかけたことで、民衆は長治を恐れ慄き、長治に非難したという。
長治を恐れた国衆は十河存保に泣き諫言したが
長治の考えは変わらなかったんじゃ
その3.民衆に法華宗への改宗を要求!?
1575年、長治は阿波全土の領民に対して、法華宗への改宗を強要した。これは三好家が法華宗を信仰していたためではあるが、阿波はもともと真言宗が盛んな地域であった。
三好長慶が勢力を拡大できたのはキリスト教も一向宗も保護したからなのに、、、
とうとうたまりかねた領民は一揆を起こした。また、長宗我部元親は阿波の混乱を好機と考え、守護の細川真之とともに長治を追い込んだ。結局、長治は25歳という若さで亡くなった。
まとめ
三好長治は父・実休の死により若くして当主となった はじめこそは優秀な家臣・篠原長房に支えられていた 暴君エピソード ・家臣に囁かれて篠原長房を自害に追い込む ・少年に即日牛裂きの刑を執行した ・真言宗の多い阿波の人々に日蓮宗に改宗するよう強要した たまりかねた領民による一揆が多発し、隣国の長宗我部元親に攻められて滅びた
結局、暴君は滅んでしまうのがオチですね