戦国時代は今よりも血のつながった親族を大事にした時代だよね
そうではあるが
親が子を処刑してしまうことも珍しくなかったんじゃよ
恐ろしいねー
今回は親に処刑されてしまった戦国武将を紹介していきます!
信玄により追放された武田義信
武田義信は戦国最強の騎馬隊を率いた武田信玄の長男として生まれた。信玄は上杉謙信に対抗するために武田と今川、北条との間に三国同盟を結んだ。そのため、長男の義信は今川義元の娘と結婚していた。
義信は政略結婚で今川の娘と結婚していたんだな
ところが、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなった。その結果、今川家は急速に勢力が衰えてしまい、代わって織田信長や徳川家康が台頭してきた。こうした状況に信玄も今川領への侵攻を画策。そのせいで、「今川派の武田義信」と「打倒今川派の武田信玄」が争うことになってしまった。信玄は義信を寺に幽閉し、自害に追い込んだ。
信玄は父親を追放して、長男を幽閉して
なかなかひどい武将だなー
無実の罪で処罰?松平信康の最期とは
松平信康は徳川家康の正室・築山との間に長男として誕生。優秀な武将として名高かったにも関わらず、父親に処刑されてしまった。松平信康の切腹の真相については次の3つの説が囁かれている。
どうして信康は切腹させられたのだろう?
徳姫妻と築山母不仲説
妻の徳姫が娘しか産まないことを母の築山がなじったため、仲が悪くなってしまった。その結果、徳姫は父・織田信長にこのことを伝えて、築山と信康を処刑したという。
信康暴君説
信康は普段から気性が荒く、乱暴な振る舞いをしていたという。これを知った信長は家康に信康を処刑するように命じた説。
家康との不仲説
家康と信康は日頃から仲が悪く、家臣団の間にも派閥が生まれていたという。また、家康の家臣団は合戦の先鋒を務めるなど、華々しい活躍をしているのに対し、信康の家臣は物資の運搬などの地味な仕事しか与えられなかった。信康はそのことに不満を抱いており、結果的に家康に処刑されることになったという。
家康との不仲からの事件だったのではないかな?
詳しい解説はこちら↓
豊臣政権の崩壊を招いた切腹事件
豊臣秀吉は子に恵まれなかったため、姉の長男・豊臣秀次を養子とし、次期当主に指名した。秀次は関白職を継承し、秀吉の後継者として地位を固めていた。ところが、秀吉に実の子・豊臣秀頼が生まれる。秀吉は秀頼のことを可愛がり、次期当主にしたいと思い始め、目障りな秀次を処刑してしまった。
次の切腹には諸説あり!
- 1.豊臣秀吉が実の子である豊臣秀頼を溺愛するあまり、次期豊臣家の当主の豊臣秀次を抹殺したかった説
- 2.豊臣秀次の重臣が幅を利かせるようになり、反感を抱いた石田三成が謀反の疑いを捏造した説
- 3.淀が豊臣秀頼以外の豊臣家の跡取り候補を処分するように秀吉に讒言した説
- 4.豊臣秀吉は豊臣秀次をもともと処刑するつもりはなく、豊臣秀頼が生まれたことで追い詰められた秀次が自害した。これに逆上した秀吉はその妻子を亡き者とした説
結局、この事件で豊臣家は衰退してしまい
徳川家康に付け入る隙を与えまったんじゃ
まとめ
親に処刑された戦国武将を3人紹介した。しかし、いくら世の中が荒れていた戦国時代とはいえ、親が跡継ぎになる可能性のある子を処刑してしまうことはほとんどなかった。
また、処刑されてしまった武将に共通しているのは、優秀な子が処刑されてしまっていること。戦国時代において、無能な者の方が長生きする傾向にあり、実力者は目をつけられて処刑されることが多かった。
ちなみに大友宗麟は父親を処刑したことで有名だよね