水野勝成は傾奇者で
多くのユニークな逸話を残した武将だな
その中には人間離れした話も多いがなー
今回は水野勝成にまつわる伝説をいくつかみていこう!
恐れ知らずの水野勝成!!
逸話その1
初陣となった高天神城の戦いで、水野勝成はわずか16歳でありながら15もの首級をあげて活躍。織田信長から感状や永楽銭の旗印を賜りました。
逸話その2
本能寺の変後の天正壬午の乱では、鳥居元忠と抜け駆けに関して揉めました。そして単騎で北条軍1万以上もの兵に突撃し、19歳にして300もの首級を挙げたといいます。
合戦では命令があるまで動いてはいけないんじゃが
勝成はそれを無視して突撃したんじゃ
逸話その3
小牧長久手の戦いでは眼痛だからといって、水野勝成は兜もせずに出陣。それでも一番槍をとってきました。
しかもこの時、荒武者・森長可を討ち取ったんじゃ
この戦いから父と喧嘩するようになったんだよなー
逸話その4
52歳の時、水野勝成は大坂の陣に出陣。一部隊の大将であるにも関わらず、先陣を切って戦い参加したことを徳川家康に叱られます。
家康も呆れとるじゃろ
逸話その5
勝成は天下の大剣豪・宮本武蔵から剣術の奥義を習っています。また、武蔵は勝成の家臣として大坂の陣に出陣しています。
島原の乱では、勝成はすでに75歳にも関わらず活躍したけど
武蔵は54歳でもうダメだった
逸話その6
88歳でこの世を去った勝成ですが、87歳にして鉄砲で離れた的に命中させたといいます。またこの的は現在も保管されています。
虚無僧となった勝成の常識を逸した伝説
豊臣秀吉に追われる身となり
各地を放浪していた時の伝説を紹介していくよ
伝説その1
放浪している時、自分の身体の垢をまるめて、「これは薬だ」と嘘をつき子どもに飲ませたといいます。
「なぜこんなことをしたのか」はわかっていないよ
伝説その2
勝成が黒田長政に仕えていたころ、豊前国人一揆の鎮圧に出陣。この時、黒田軍は城攻めを失敗してしまい、撤退を余儀なくされる。撤退戦での殿を務めたのは水野勝成でしたが、長政の家臣・後藤又兵衛は「自分が一番最後だ」と主張。そこで勝成は布切れを見せて、「落ちていましたよ」と又兵衛に渡し、自分が1番最後だったことを皆に示したといいます。
武勇を誇りたかったんじゃな
勝成は虚無僧となって各地を放浪していたけど
自分が福山藩主となったときには、虚無僧の出入りを禁止したよ
情の厚い水野勝成
暴れん坊のイメージがある勝成だけど
情に厚い一面もみせているぞ
その1
関ヶ原の戦いの後、合戦の責任を取らされた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊たちは市中引き回しにあっていました。これをみた勝成はかつての主君であった小西行長に編笠を被せたといいます。
その2
福島正則の改易に伴い、勝成には福山10万石が与えられました。勝成が浪人時代に過ごした土地であったため、地の利に詳しく善政を敷きました。そのため、表石高10万石にも関わらず、実質30万石もあったといわれ大変豊かでした。
水野家に代わって阿部家が福山藩主となると
石高はもとの10万石に戻って、農民たちは苦しんだみたい
その3
勝成が福山藩主であったとき、凋落していた三村親成を家老に迎えいれました。親成は勝成が浪人時代の主君であり、世話になった人物でした。
勝成は恩義を忘れていなかったんじゃ
わしも百姓のときの主君・松下之綱を家臣として重用したぞ
また、徳川幕府は武家諸法度で禁止されていた新城の築城を許しているよ
まとめ
水野勝成には様々なエピソードが残されており、非常におもしろい武将です。また、勝成は各地で放浪していたことが影響してか、非常に多趣味で文化人としての顔ももっています。
連歌や和歌を嗜んで、自らも歌を作っていたよ
能楽も嗜んでおって
わしが遺した舞台で踊ったそうじゃ