蒲生氏郷といえば
織田信長、豊臣秀吉に信頼されて若くして出世した武将!!
会津92万石の大大名にまで上り詰めおったのー
そんな人物なのに40歳にして
急に亡くなってしまったのはおしい
やはり氏郷は暗殺されたのではなかろうか?
そこで今回は蒲生氏郷を毒殺した疑いのある人物を5人紹介していきます!
伊達政宗
蒲生氏郷が会津の統治を任せられたのは、江戸の徳川家康と奥州の伊達政宗を見張るためでした。小田原征伐後も伊達政宗は天下を取ろうと考えていたため、伊達政宗による毒殺説が浮上しています。
政宗は天下のためなら
手段を選ばない武将だしなー
毒殺説が最も濃厚なのは伊達政宗じゃな
また、小田原征伐前に会津を占拠していたのは伊達政宗。ところが、豊臣秀吉により天下統一が成し遂げられると会津は氏郷のものとなってしまいます。これでは、政宗が怒って氏郷を暗殺してしまうのも無理はありません。
とはいえ、
政宗が氏郷を毒殺したという証拠はないけど、、、
石田三成
石田三成は横柄な性格で武将たちから嫌われることが多い武将ではありますが、豊臣秀吉への忠義は本物。豊臣秀吉のためなら、どんなことでも成し遂げようとしました。そのため、三成は蒲生氏郷が豊臣秀吉にとって邪魔な存在であるとそれとなく察し、三成が氏郷を毒殺したのではないかと言われています。
それに氏郷の代わりに会津の領主となったのは
三成と仲のいい上杉景勝
とはいえ、三成の毒殺説は時系列的に難しいと言われています。さらに、のちの権力者となった徳川家が石田三成を悪者に仕立てるために、三成に蒲生氏郷の毒殺の罪をなすり付けたともいわれています。
徳川家にプロパガンダか、、、
石田三成が嫌われ者なのは徳川家のせいとか
豊臣秀吉
石田三成だけの単独犯は考えにくいため、豊臣秀吉が三成に命令して蒲生氏郷が毒殺されたと言われています。秀吉にとって氏郷は織田信長の家臣時代から力のある、脅威のある扱いづらい部下と考えていたのでしょう。
信長の家臣のほとんどは力を削がれている
また、会津に赴任する大名としては蒲生氏郷ではなく、細川忠興が最も有力でした。ほとんどの大名は忠興を推薦しましたが、秀吉ただ1人が氏郷を会津に赴任することに決定。これは、秀吉が氏郷は扱いづらいため、京都から遠ざけたかったのではないかといわれています。
つまり左遷か、、、
氏郷の後を継いだ秀行は幼いことを理由に
92万石から18万石へと力を削ぎ落とされておる
直江兼続
石田三成との協力して蒲生氏郷を毒殺したとする説です。理由は上杉家が会津という要衝を手に入れるためです。上杉家は早い段階から豊臣家に臣従していたこともあり、豊臣政権内でそれなりに大きな存在感を放っていました。ところが、毛利や徳川、島津に比べるとその領土は決して大きくはありません。そこで、直江兼続は会津の地を手に入れて、主君の上杉家の力を強くしようとしたといわれています。
直江兼続と石田三成は仲が良かったからあり得るかも
徳川家康
蒲生氏郷は92万石の大大名であり次期天下人候補でした。徳川家康は早い段階で氏郷を葬りたかったといわれています。
また、氏郷は家康を抑えるために会津に赴任しています。そのため、会津を治める者には出来の良くない武将が来てほしい考えたのかもしれません。
まだまだ、説と呼ぶには弱いなー
まとめ
蒲生氏郷の毒殺説が囁かれるのは、氏郷が多くの武将からその才能を認められていたことの裏返しではないでしょうか。戦国時代において、優秀な武将にはそれだけ危険が多かったのでしょう。
凡人ほど戦国時代では長く生き延びられるとか