石田三成は嫌われ者のイメージが強いけど
一方で三成と仲良くしていた武将もいるよなー
三成は好き嫌いが分かれやすい性格じゃったからのー
それでは石田三成の盟友を紹介していくぞ
大谷吉継
石田三成の盟友といえば、大谷吉継の名が真っ先にあがると思います。
三成と吉継の出会いは大坂城で開かれた茶会でのこと。招かれた豊臣家臣は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していました。この時、吉継が口をつけた後は、どの武将も病気の感染を恐れて飲むふりをするだけで次のものへ回していました。
ところが、三成は普段と変わらずその茶を飲み、さらに茶を飲み干しておかわりを要求しました。このことに感動した吉継は三成に命を預けることを心に誓ったといいます。
このときに
吉継の顔の膿が茶碗に入ったともいうよ
その後、大谷吉継は石田三成と常に行動を共にしました。2人は同世代であり、出身も同じ近江(滋賀県)であったことから、さらに親しくなったといいます。
2人の間には男色の関係があったとも噂されておるんじゃよ
吉継は関ヶ原の戦いには負けるとわかっていながら
親友の三成に味方したもんなー
直江兼続
直江兼続は上杉景勝の重臣であり、石田三成は豊臣秀吉の重臣。2人は豊臣と上杉が同盟を結ぶにあたり幾度となく面会することがあったため、2人の間に友情が芽生えたのだと思われます。
2人は同じ年に生まれて
同じ参謀だったから共通点が多かったんだろうな
豊臣秀吉の死後、徳川家康は有力大名の上杉景勝に謀反の疑いがあるとして、会津征伐を敢行。三成は兼続のいる上杉家が家康に狙われていると知って挙兵しました。三成の挙兵を知った家康は進路を変更し、天下分け目の関ヶ原の戦いを始めるのでした。
関ヶ原の戦いは2人の友情から生まれた合戦ともいえるのかもなー
佐竹義宣
佐竹義宣は関東地方の大名であり、豊臣秀吉の小田原征伐の頃に、豊臣の配下となっています。それ以来、石田三成との親交を深めてゆきました。
佐竹家の与力大名である宇都宮国綱が改易されたため、義宣にも何かしらの処分を下される可能性がありました。しかし、石田三成がとりなしたことにより、処分を免れています。
このときに義宣は三成に深い恩を感じたんだろう
また、豊臣秀吉、前田利家が亡くなると、加藤清正ら豊臣七将は石田三成邸を襲撃しました。これを聞いた義宣は慌てて三成を救い出し、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせています。
義宣は治部が死んでは生き甲斐が亡くなるといったそうだよ
ところが、関ヶ原の戦いでは発言力のあった父に反対されて西軍として出陣できず国元に待機していました。その後、徳川家康のもとへ謝罪にいくと、「佐竹義宣ほどの律儀者は見たことがない」と評されたといいます。
小西行長
小西行長は石田三成と同じ文治派の大名であり、三成とともに行動することが多かった武将です。豊臣秀吉の朝鮮出兵には石田三成とともに明との交渉役に携わっています。
行長は交渉をうまくできず
秀吉の怒りを買ってしまっただよな
関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応して西軍の将として出陣しました。ところが、戦争責任を取られて三成とともに市中引き回しの後に斬首されてしまいます。
行長は清正と張り合うほど
腕が立つ猛将でもあったんじゃよ
番外編
真田幸村
よくドラマや小説では、真田幸村と石田三成が関わるシーンが多く描かれています。ところが、実際にはそこまで仲はよくなかったでのはないかと考えています。
理由
真田幸村が大坂城にいたのは豊臣家の人質とされていたころであり、1590年代です。このとき、真田幸村は20代でした。対して、石田三成は豊臣秀吉に仕える参謀であり、この頃は30代です。2人が同じ大坂城にいたといっても、立場や年代の違う2人が仲の良い関係を築くとは思えません。
ただ、幸村が石田三成の盟友の大谷吉継の娘と結婚しているから
関係がなかったともいえないか
黒田長政
石田三成は黒田長政にとって命の恩人でした。荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたとき、父・黒田官兵衛は村重とともに謀反を起こしていると疑われてしまいます。
そのせいで織田家の人質であった長男の黒田長政が処刑されそうになりました。ところが、竹中半兵衛や石田三成が裏で長政を匿ったため、無事に助かりました。
官兵衛が本当は謀反を起こしてはいないから
三成たちは長政を助けたんだよ
このことを恩に感じていた長政は関ヶ原の合戦後に、東軍の将が捕まえられた三成に野次を飛ばす中、長政は三成にそっと寄り添って自身の陣羽織を三成に着せたといわれています。