徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いで勝利をおさめて
14年もたってから大坂の陣を起こしたけど
どうしてそんなに時間がかかったんだろう?
江戸幕府は1603年に開いておって
1605年には二代目の徳川秀忠に譲っておるし
1614年とはかなり時間があいておるのー
家康が秀頼と二条城で会見したのも1611年だしなー
今回は家康がなかなか豊臣家を滅ぼさなかった理由についてみていこう!
決戦!!関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は石田三成の居城・佐和山城の落城を見届けてから大坂城へと向かいました。そして、大坂城に籠る西軍の総大将である毛利輝元との開城交渉を行い、輝元は退去。家康は大坂城に入城して、表向きの主君である豊臣秀頼に謁見。豊臣家の筆頭家老として、「家中の取り締まりを致しました」と報告。
家康は決して大坂城に攻め込むことはなく
豊臣の一家臣として秀頼に仕えている態度を取っていたんか
また、家康は関ヶ原の戦いで西軍に味方した大名から領土を奪い取り、東軍の大名へ領土を分け与えました。この時の没収石高は632万石にものぼり、日本全石高の3分の1にあたります。この没収石高は徳川譜代大名に多く分け与えられることはなく、そのほとんどが東軍に味方した豊臣恩顧の大名へ分け与えられました。
東軍に味方した豊臣恩顧の大名は国持ち大名へと出世を果たしたんじゃ
日本の3分の2は外様大名の領地になっていたんだ
まだ攻めどきではない
関ヶ原の戦いでは敵が石田三成であったからこそ、福島正則や黒田長政などの武断派の武将を東軍に引き込むことに成功しました。ところが、秀頼を相手に戦を起こしたとき、豊臣恩顧の大名がどのようにでるか家康は恐れていました。
秀頼が幼いうちは家康が政務につき、秀頼が成人すれば家康は政務職を降りて政権を返すものと大坂衆や世間の人は考えていただろうし
家康は「秀頼が成人するまでのつなぎの役割になってなるものか」と考えていました。とはいえ織田家や豊臣家の繁栄や没落を目の前にし、しっかりとした体制や枠組みでなければすぐに滅んでしまうのも目に見えています。末永く徳川家が繁栄するため、じっくりと策を練って土台固めに勤しむことが先決でした。
まだ家康は56歳で、健康に気をつけているからまだ長生きできると考えていたんじゃろなー
着々と進める天下への道
家康は天下覇権への手を打ち始めます。1603年までは、諸大名は秀頼に年始の挨拶をし、家康への新年の挨拶は後回しでした。しかし、家康が朝廷から征夷大将軍に任命せれると事態は一変します。征夷大将軍は武家の棟梁として、日本全国の大名に命令できる権限をもちます。つまり、秀頼が関白になろうとも、大名に命令できるのは将軍・徳川家康という状況になってしまいます。
この2年後に家康は息子の徳川秀忠に将軍職を譲って盤石なものとしたんじゃな
それに家康は関白の職を豊臣家から五摂家へ返上させているし
ところが、家康は逆臣になりたくなかったのか、死の床で拝むようにした老人の願い(豊臣秀吉の死に際)を裏切りたくなかったのか、秀頼に対して辛抱強く待ち続けました。家康は秀頼に「大坂城をでて淀殿を人質に出せば、豊臣家の存続は安堵致しましょう」と。さらに生前の豊臣秀吉との約束通り、千姫を秀頼のもとへ嫁がせています。
家康は大坂の陣を起こそうとはしていなかったみたいだな
豊臣家を滅亡させたくなかったのかな?
ところが、秀頼と淀殿は大坂城を動きませんでした。そして1614年、方広寺鐘銘事件が起こってしまいます。この時家康71歳、秀頼21歳でした。もう待てなくなった家康は軍を率いて大坂城へ攻め込むのでした。
他の要因として、
徳川秀忠とその弟・松平忠輝の仲が険悪
家康の孫である家光と国松が後継者争いをしている
伊達政宗が未だに天下を狙っている
キリシタンが反乱しようとしている
これらが豊臣家と結託したら徳川家の脅威だもんなー
しかも、加藤清正や浅野長政などの豊臣恩顧の大名は次々と亡くなっていったから
家康は最後の戦いを始めたんじゃろな