戦国時代には三英傑といわれる素晴らしい戦国武将が現れた一方で
ダメダメな戦国武将もたくさんいたんだよなー
多くの愚将はお家を滅ぼしてしもうたのー
それでは間抜けな戦国武将ランキングみていこう!!
第5位
言わずと知れた本能寺の変で織田信長を裏切った明智光秀。明智光秀は冷徹で知性の高い武将であったにも関わらず、突如として謀反を起こしてしまいます。謀反の大義名分を明かさないために、次々と家臣が離反してしまいました。結局大急ぎで引き返してきた豊臣秀吉に敗れ、光秀の天下は幕を閉じてしまいます。
光秀が家臣や周辺大名に大義名分をあかしていれば
謀反は成功していたかもしれないのに
第4位
佐賀県の大名・龍造寺隆信。一族のほとんどを殺害した少弐家を追放するなど、北九州を代表する大名にまで成長を遂げました。1584年、薩摩(鹿児島県)から勢力を拡大していた島津家と沖田畷の戦いが勃発。龍造寺軍は島津軍の3倍もの兵力を率いていたため、かなり油断していました。
その結果、島津軍から奇襲攻撃を仕掛けられ、龍造寺本陣が脅かされます。隆信は「肥前の熊」といわれるほど、太って馬にも乗れなかったため、すぐに逃げることができず討たれてしまいました。
隆信は猜疑心が強くて、家臣を理不尽に粛清していたから
人望がなくても家臣に見捨てられたのかも
子どもの頃に一族が皆殺しにあったから人を信じれんのじゃろ
第3位
桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元の後継者・今川氏真。衰退してゆく今川家の立て直しをはかるべく、楽市楽座を取り入れて商工業の発展にも努めました。
しかし、相次ぐ家臣の離脱により戦国大名としての今川家は滅亡してしまいます。そこで氏真は文化人ととし傾倒。父の仇である織田信長の前で蹴鞠を披露することもあったそうです。これには「あれが父の仇を討てなかった御曹司のなれの果てよ」と笑われたといいます。
氏真は大名としての素質はなかったけど
江戸時代に今川家を残せたのはすごいな
第2位
大内義隆は山口県を中心に中国地方6ヵ国を支配する大大名です。下剋上吹き荒れる戦国時代、義隆も戦国武将として各国へ出陣していました。ライバルである山陰地方の覇者・尼子家の月山富田山城へ侵攻。しかし、配下の裏切りにあい大敗を喫ししてしまいます。このときに寵愛していた養子の大内晴持を亡くしてしまいました。
このことにひどく落ち込んだ義隆は汚い戦から身をひき、華やかな京都の文化を嗜むようになります。そのため、当時の山口県は「西の京都」といわれるほど街並みとなりましたが、全く政治に関わらなくなったため、家臣の陶晴賢に大内軍を乗っとられてしまいます。そして、陶晴賢の謀反により大内家は滅亡してしまいました。
戦国武将ではなく
文化人として生まれたら大成していたかもしれないなー
第1位
室町幕府のナンバー2である管領につける名門に生まれた細川政元。その才能を発揮して、敵対していた畠山政長を自害に追い込み、10代将軍・足利義稙を追放して11代将軍・足利義澄を将軍とした武将。絶大な権力を得て「半将軍」といわれたにも関わらず、なぜか修験道に没頭してしまいます。
そして、「いつかは天狗になりたい」と考えた政元は合戦そっちのけで修行に没頭。さらに、天狗になるため女人禁制として、一切妻を娶りませんでした。そのため、政元の後継者が決まらず細川家は内乱を起こすこととなってしまいます。
政元は本当に優秀で、合戦に出陣すれば勝利に導けたのに
天狗になろうとしたからなー