どうする家康を見逃した方はこちら

大坂夏の陣に勝機はあったのか?

合戦
ひろ
ひろ

戦国時代最後の戦いといえば大坂夏の陣だなー

織田信長
織田信長

夏の陣で豊臣家は滅び

徳川天下は揺るがぬものとなったからのー

ひろ
ひろ

圧倒的に不利だった豊臣軍徳川軍に対抗できた訳をみていこう!

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合戦の背景

大坂冬の陣の講和により、一旦は豊臣方徳川方の関係は落ち着いていました。ところが、徳川方は大砲の製造を始めるなど、戦いの準備を始めており、豊臣方も浪人衆に金銀を配布して武具の準備をするなど、戦いの準備に着手していました。

織田信長
織田信長

豊臣方は籠城戦のために

武器を買い入れて食糧も調達していたんじゃ

天下人となった豊臣秀吉が息子・豊臣秀頼のために築いた難攻不落大坂城でしたが、徳川方との和睦により堀が埋められ「はだかの城となっていました。そのため、冬の陣で豊臣方についた浪人衆の多くは「今度こそ勝ち目はない」と考え、豊臣から離れてしまいました。そこで、秀頼は大坂城周辺農民町人までも兵として召し抱えたのでした。

ひろ
ひろ

通説では、徳川方が無理矢理大坂城内堀を埋めたといわれているけど

本当は埋めていないといわれているよ

大坂城。天下人・豊臣秀吉が自らの威信を示すために築いた難攻不落の城。

決戦!!大坂夏の陣!!

大坂城の堀は埋められ裸城となっていたため、豊臣方が籠城戦では勝つ見込みはゼロ。さらに徳川軍は15万の大軍であったにも関わらず、豊臣軍は寄せ集めの7万。こうした状況から、豊臣方が勝利するには総大将・徳川家康の首を討ち取るしかありませんでした

ひろ
ひろ

真田幸村が単騎で徳川家康の首を狙いに行ったのは

こうした経緯があったからか

夏の陣開戦直後こそ豊臣軍が優勢で、大野治長隊は大和郡山城を陥落させ、徳川軍の軍事基地であった堺を焼き討ちにしています。ところが、道明寺の戦い八尾・若江の戦いで徳川軍の勝利が続くと、豊臣方はじりじりと大坂城にまで追い詰められてゆきます。

織田信長
織田信長

野戦は数がものをいう戦じゃからなー

ひろ
ひろ

道明寺の戦い後藤又兵衛が討ち死にするほどの壮絶な戦だったよ

追い詰められた豊臣軍は天王寺口で徳川軍と対峙。真田幸村徳川家康の首を狙うべく、本陣めがけて3回に渡って突撃を繰り返しました。幸村の突撃により徳川本陣は大混乱に陥り、三方ヶ原の戦い以来一度も倒れなかった馬印が倒れ、家康は騎馬で逃げまどう事態に陥ります。そのため、家康は2度も自害を覚悟したといわれています。

ひろ
ひろ

真田隊決死の突撃!!

この辺りは後世の人たちが脚色を加えて、真実とは程遠いものとなっているかもしれないな

真田隊が家康を追い詰めていたころ、大野治長豊臣秀頼に出陣要請をするため大坂城へ戻っていました。これをみた豊臣方は「大野隊が撤退した」と勘違いし、士気を一気に落としてしまいます。その結果、豊臣軍は総崩れとなってしまいました。そして、徳川の内通によって大坂城に火が放たれ、大坂城は落城してしまいました。

織田信長
織田信長

真田幸村安居神社で休んでいるところを討ち取られてしもうたんじゃ

真田幸村。大坂夏の陣ではすでに49歳。
当時としてはかなり年をとっており、歯が抜け白髪が生えていた。

どうすれば豊臣家は勝利できた?

大坂の陣では豊臣方が徳川方と互角に戦った場面もあり、豊臣軍に全くの勝機がなかった訳ではありません。ところが、豊臣軍は勝利できず、徳川軍の勝利となりました。

ひろ
ひろ

なぜこのような結果になったのだろうか

豊臣軍の多くは秀頼がばら撒いた金銀で集まった浪人衆でした。彼らの中には真田幸村長宗我部盛親などの元大名もいましたが、これらは少数。つまり、豊臣方には優秀な指揮官がいなかったのです。寄せ集めの兵では団結力がなく、連携がうまく取れなかったことも敗因の一つです。

織田信長
織田信長

命のやり取りをする戦場は混乱しておるんじゃ

そのため、先陣をきる優秀な指揮官が必要なんじゃ

また、冬の陣のときから豊臣方は籠城戦に持ち込んでいました。つまり、豊臣方は堅固な守備を誇る大坂城という切り札を切ってしまったのです。これはかなりもったいないことでした。

さらに、秀頼は冬の陣の講和条件として、城の堀を埋めることを許可。これでは大坂城の長所を潰してしまい、夏の陣で野戦をするしかありません。

ひろ
ひろ

数で圧倒的に不利なのに

野戦しかできないとは、、、

とはいえ、秀頼が家督を継いだのは5歳のときで、豊臣秀吉から天下人としてのノウハウを学ぶことはできていません。また、秀頼は大坂の陣が初陣であり、母・淀殿の強い影響を受けていたため、自由に意思決定できませんでした。そうした状況にも関わらず、豊臣方には優秀な軍師もいなかったため、豊臣家は滅びてしまったのではないでしょうか。

織田信長
織田信長

やはり秀頼が生まれるのがあまりにも遅かったんじゃなー

豊臣秀頼。大坂の陣の3年前に二条城で徳川家康と会見を開いた際、家康はその成長ぶりを恐れた。(養源院蔵)

まとめ

戦国最後の合戦・大坂夏の陣。豊臣方についた真田幸村はあと一歩のところまで徳川家康を追い詰めましたが、味方の援軍を受けることができず失敗に終わってしまいました。それほど、寄せ集めの豊臣軍は連携をうまくとることができていなかったのでしょう。

ひろ
ひろ

もし真田幸村徳川家康の首を討ち取っていたら

日本はまた戦国乱世に突入してしまっただろうな

また大坂夏の陣後、大混乱に陥った大坂城周辺では、幕府軍による大量虐殺が起こっていました。手柄を誇張するために庶民を斬り殺すもの、逃げ惑う市民を誘拐するもの、金品を巻き上げるものなど、カオスに陥ってしまったのです。

ひろ
ひろ

このとき、子どもは高く売れるから何千人も誘拐されたみたい

大阪夏の陣で真田幸村が徳川家康を追い詰めている様子。

コメント

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